Vol.10 1999



早稲田大学人物研究会主催講演会「鶴見済 -対談- 宮台真司」
(99年11月4日 早稲田大学大隈講堂)
 「完全自殺マニュアル」の不健康図書指定が、事実上発禁処分と同じであるという話題から対談はスタート。ただでさえ取次ぎは書店からの直接注文という特殊な形態で「完全自殺マニュアル」を扱っていたのに加え、条例で規制されれば未成年に売った書店は逮捕されるし、規制された本を置くことによって地域住民との軋轢が生じる可能性もあるため、そんなリスキーな本を書店は置かなくなる。こうして取次ぎ・書店・住民がそれぞれに圧力を分担する形で、本来は発禁処分の実行性を持たないはずの不健康図書指定がそうした影響力を持ってしまう。そもそも自殺は違法行為ではないはずなのに、なぜこうした事態になってしまうのか。安楽死と自殺が全く別のものとして論議されているのも不思議で、このままでは死をめぐるコミュニケーション全般がタブーになってしまう、というのが鶴見の主張だった。

 続いて宮台。統治権力に対して規制するものが憲法であり、国民に対して規制するものが法律であるが、このような構造は理解されていない。それと同様に、行政がある書物を規制するのと、市民がある書物に対して批判的であることは全く異質であるのに混同され、その問題性が認識されないまま今回の不健康図書指定が行なわれていると解説した。

 そして、未成年の基本的人権は本当に存在するのかと鶴見が提起。共同体的伝統の保持のため、自己決定権を認めることを回避しているのが日本の現状である。政治家は権力基盤の維持のために自己決定権を認めない。そして、現状を改革することすら不可能な構造に陥っているのが問題だ。鶴見の話も、この辺から話のスケールが大きくなっていく。

 不健康図書指定にせよ児童ポルノ法案にせよ、結局は未成年を口実にしているだけではないか。その未成年たちは参政権も無いので代弁者すらおらず、社会的発言力を持ちようもない。そうした鶴見の訴えは、質疑応答での「僕は未成年のためのマルコムXになりますよ」「革命だ!」という強烈な発言につながっていった。

 こうまとめると両者とも真面目くさって対談をしていたようだけど、さすがに鶴見済は違う。禁煙の講堂で煙を吐き、学生に抗議されると「裁判で決着をつけましょう」。たえず落ちつきなく裸足の足を動かしながら、あげくテレカで何か粉末をすりすぶして吸引し始めた時には、満員の大隈講堂にどよめきが起きた。終了後に語ったところによると、「あれは処方された薬を挑発的に飲んでみただけ」とのことだったが、摂取後に急に明晰になった印象だったために本当に覚醒剤でもやったのかと思ったほどだ。でも、恐らく鶴見済は鶴見済の役割を適切に認識して演じている部分もあるのだろう。

 ところどころ論理の隙というか飛躍も見せ、説明の途中で投げやりになったりもする鶴見の一方で、宮台真司は社会学的な分析を加えつつ話題を発展させていて、見事なサポートぶりだった。しかも、鶴見の発言を解説するのに終始するのかと思いきや、しっかり自己決定権という得意技に持ち込んでいたし。

 イベント終了後、鶴見済×山崎浩一の対談を次号に掲載するワセダエトセトラについて打ち合わせるかちゃくちゃさんに同行して、鶴見氏に謁見。生で会った鶴見さんは、もらった花束を見て「変な花ー!」とはしゃいだり、めちゃくちゃ愉快な人だった。

 そして、会場の外で待っていたファンにフレンドリーこの上なく応対している彼を見ていると、未成年者の代弁者になるという発言もかなり本気なのではないかと思われてきた。彼の発言を聞いた時には、未成年を持ち出すのも計算された戦略の一環なのではないかと勘ぐったのだが、ひょっとすると彼はさらに難儀な道に踏み込む覚悟を固めているのかもしれない。自分の読者を背負い込もうとするらならば、その重さはかなりのものであるはず。必然的に反社会的なスタンスを明確にしていくことは間違いなく、そこに生じる軋轢は社会との妥協点を模索できる程度に収まるのか、それとも既存の価値観との決別を貫くのか。そこに穏やかならぬ胸騒ぎも感じたのだった。

(NOV/22/99)