Vol.16 1999-2000



本秀康「君の友だち」 (青林工藝社)
 本秀康の描線のにじみ具合にはアナログ的な暖かさがあるし、擬音語の書き文字やキャラの造形などを見るとちょっとレトロな印象もある。そして確かにほのぼのとした雰囲気の短編もあるのだが、どこか空恐ろしくもあるのが魅力だ。巨大ロボットが出てきても妙に人間臭かったり、登場人物の会話ののんきさがいい味を出している一方で、友情や愛情が逆に悪い結果を生んでしまう話が多いのだから油断はできない。宇宙人を助ける「君の友だち」も、ちょっといい話のはずが地球スケールのダイナミックな惨劇に。優しさの行きつく先が大量殺人だったという「アーノルド」のブラックさも、単に残酷なだけではない複雑な後味を残していて、それはちょっと悲しいのだ。
(APR/03/00)



かわかみじゅんこ「ワレワレハ」 (宝島社)
 思い込みと紙一重の恋愛感情の激しいエネルギーが封じ込められた彼女の作品は、噴出されるエネルギーが強烈だ。一瞬の感情の高まり、根拠無き確信、無鉄砲な愛情。そんな感覚が、混乱寸前のコマ割りとトーンによって描かれている。

 3話連続の表題作「ワレワレハ」は空回り気味。唐突な展開にして説明不足で、気合いだけが先走っているかのようだ。でも、他の短編のうち「ルーシーはダイヤを持って空へ」と「りんごミント」はそれを補って余りある佳作。特に前者では、自分の過去を後悔することを恐れるために新しい恋を拒絶する女の心の揺れ、加えて主人公の男とその男友達の距離の取り方の描写が秀逸だ。

 最後の1ページが最高な「りんごミント」を読めば明らかなように、内容的にはかなり少女マンガに近い面もあるのだけれど、自分の期待と現実とのズレに立ち向かう姿勢の極端なほどのパワーは、とても鮮やかでキラキラしている。内容についての比喩だけではなく絵も。

(APR/03/00)



林静一「ph4.5 グッピーは死なない」 (青林工藝舎)
 マンガに昭和天皇が登場している。たったひとコマに過ぎないのだけれど、10年近く昔に本屋でその事実に驚き、しかし買ぬままその後は入手も出来なくなった「ph4.5 グッピーは死なない」が再版された。87年に「COMICばく」で連載を開始したものの途中で改稿してもう一度「ガロ」で最初から連載され、91年に単行本が発売された作品だ。待望という言葉がふさわしい。

 「ph4.5 グッピーは死なない」では、学生運動の60年代が遠く過ぎ去った後の80年代が、昭和天皇の死による昭和の終焉まで描かれる。主人公は、元フォーク歌手で現在作詞家の35歳の男。妻とはセックスレスで、かつて自分のファンだった女と不倫関係に落ちる。愛欲に縛られて別れるに別れられぬ泥沼寸前の関係にもなるが、男はそうした状況のスリルを楽しんでもいた。そうした不倫の物語に重ねられているのは、自由を求める近代的自我と、その一方で自己犠牲を求める社会構造だ。

 1ページ均等8コマのコマ割り、陰影を表現するのに使われる点描、意図的に主人公の顔のアップを避けるアングルの連続が基本。そして、主人公の顔が滅多に出ない代わりに、セックス描写では接合部分のアップが延々と描写され、しかもそこに経済・思想・文化についてのモノローグが同時進行するという具合だ。物語の本筋と関連して、おびただしい量の映画・報道写真・他の作家によるマンガが、その古今東西を問わず引用される。そして終盤では、不倫の物語が主で、引用によるモノローグが従という構図は逆転。モノローグから引用のコマ内の絵とセリフへ、そしてまたモノローグへという非常に読み手の処理能力が試されるかのような量の情報が積め込まれていく。それはマンガ表現の枠を逸脱する寸前、いや飛び出してしまっているかもしれない。

 この作品で表現されているのは、近代的自我が直面する閉塞感と倦怠感。でもそれは何も解決しないまま時間だけは流れ、バブル景気も去って深刻な不況の時代になってしまった。「ph4.5 グッピーは死なない」の続編を準備中だという林静一が、次は何を描き語るのかを待ちたい。

(MAR/06/00)



木村紺「神戸在住」第1巻 (講談社)
 木村紺のマンガは一見するとちょっと素人くさい。それはたぶんトーンをほとんど使わずに斜線で描かれているためだけれど、構図の組み方などを見るとその画力は実は高いことに気付かされる。

 主人公は神戸の大学の美術科2回生。彼女の視点から描かれるのは、友人や弟たちとのたわいなくも愛しい日々だ。第5話「夏、須磨にて。」での、海に着いてパッと視界が開ける瞬間や、海の家で休憩していると仲間たちの言葉が不意に止んだ瞬間の描写は特に瑞々しい。風通しの良い、というか常に風が心地よく吹いていそうな作品だ。

 「神戸在住」を包む暖かい雰囲気が逆に鼻につくという人もいるかもしれない。けれど、日常の中にあるシビアな現実をも「神戸在住」はしっかりと意識している。たとえば、ベランダから窓の外の崖を眺める場面に「(震災で)幾人ものひとがその下で犠牲になったらしい」というモノローグを重ねたり、あるいは知人のサングラスの向こうに義眼を見た時の落ちつかない気分を表現したり、展覧会を見に行くため乗ったモノレールの眼下にあった仮説住宅を描いたり。そうした視点を持ち合わせた木村紺のナイーヴさは、とても大人のナイーヴさでもある。

 神戸という都市を舞台にしているだけあって、阪神大震災についても2話に渡って描かれている。その回だけは主人公が登場せず、友人の経験が淡々と描写される。自分が経験していない阪神大震災に対するそうした距離の取り方もまた、表現者としての木村紺への信頼を持たせてくれた。

(MAR/06/00)



やまむらはじめ「未来のゆくえ やまむらはじめ短編集」 (少年画報社)
 やまむらはじめの作品には青臭さが漂っているものの、そこにはモラトリアムで内向的な湿気はなく、断絶を醒めた目で眺める視線がある。

 その乾き具合が最高なのが「最後の夏」。怪我によって試合で走れなくなった陸上選手が、後輩のコーチを通して、諦めがいいと思っていたはずの自分に走ることへのこだわりが残っていると気づく物語だ。山場は、後輩の転倒に動揺し女友達に抱きつくけれど、彼女が抱きしめ返してはくれない場面。その現実に彼は大きな落胆を見せはしないけれど、手にあったタバコを握りつぶし、松葉杖のままグラウンドのコースを歩いて行く。流れる汗と入道雲。断絶の中にいても、それを静かに受けとめている姿が爽快だ。

 登場人物同士の縮まらない距離は「最後の夏 〜Second take〜」や「よるのむこうに」にも存在していて、物語自体よりも刺さり具合の深さの描写が印象的。やまむらはじめは、場面によってキャラの黒目を白くも描いていて、特に負の感情の描写において迫力を感じさせる。

 そして説明的な描写を極力排するやまむらはじめの姿勢が端的に現れているのが「肩幅の未来」。男の元へ泊まりに来た女は余命が少ないことが遠まわしに表現され、しかしそんな不幸の予感とは裏腹に、他愛なく過ぎて行く時間の描写が延々と続く。1ページを4分割したコマ割りと、パースのかかったアングル。必要最小限まで削ぎ落とされた描写のために、本当は必要な説明まで抜け落ちているのではと思わせられるまま終わるものの、気がつけば過ぎ行く時間の愛おしさがしっかりと残されている。

 青臭くも乾いた感覚、表現への実験。読み手に深く刺さってくる作品集だ。

(DEC/06/99)