Vol.15 1999



TAGRO「MAXI」 (コアマガジン)
 マンガ家としてだけではなく、イラストレーターとしてもTAGROのセンスと技術は卓越している。その彼が、作品ごとに絵柄を使い分けながら描いた、エロ・ギャグ・ファンタジーなどの多彩な作品を楽しめるのがこの単行本だ。心暖まる作品から、「前から薄々思ってたけどあんた悪人じゃないか」的な展開のものまで。エロひとつとっても、常軌を逸した巨乳・複乳・獣系・グロ・肉体分割など、いかれたアイデアが満載だ。

 けれど、その多彩さは器用貧乏の危険性と背中合わせでもある。そんな不安を一気に吹き飛ばすのが、ラストを飾る「LIVEWELL」だ。

 精神を病んだ女と、彼女の元に身を寄せてヒモのように暮らす男。彼はかつて、執着と性欲が混ざり合った狂気によって、女の自殺願望を受け入れて女の首を絞めた。けれど彼女は死なず、二人の間に生まれたのは相互依存に近い愛情だった。ともに東京での大学生生活をリタイアして彼女の故郷で暮らし始めたが、豊かな自然も女の内面とは隔絶した世界に過ぎない。そして男は、彼女からすれば彼も決別したい世界の一部であることを知っている。躁鬱の中で生きる彼女との断絶は些細な出来事で浮き彫りにされ、それはたとえ愛情があっても埋めることができない。

 簡潔ながら深い感動を生む絵も、ラストへ静かに向かっていく構成も、湖に広がる波紋のように悲しみを伝える。自分も他人も周囲の世界も全ては切り離された存在だが、だからこそ悲しみとともに愛しさも生まれるのだろう。同人誌「PARKING! 5」に掲載されたこの名作が、単行本に収録されてより多くの人々の目に触れることを喜びたい。

(OCT/18/99)



下村富美「仏師」 (小学館)
 「仏師」は、抑圧の中で生きることを余儀なくされた者たちの物語だ。戦乱の時代、ある村で殺戮と暴行と収奪が行なわれ、強姦によって生まれた子は皆母親に殺されたが、村で唯一魚人(おびと)だけは育てられる。彼の顔の痣は忌まわしい過去の記憶そのものであり、村の人々は彼と母親を村八分にした。そして母を失った後、その母の面影を求めるべく魚人は仏像を彫り始める。

 この物語においてもうひとつの軸となる登場人物・耶十は、武家に生まれた女性であるために、戦略の道具として何度となく嫁ぎ、時には子供も殺された。他国から領主のもとへ嫁いできたものの、領主が病であることを理由に会うことも叶わず、別邸に暮らしている。彼女を見た魚人は、彼女の顔をモデルに仏像を彫らせてくれと頼み、耶十は出来が気に入らなかった場合は魚人の首を切ることと引き換えにそれを許す。

弱い者が常に弱いとは限らぬ/痛みを知る者が同じことをして返す
 苦しみ、悲しみ、怒り。それらが溢れる現世で、ある者は浄土に思いを馳せ、ある者は功を立てて成り上がることを夢見る。阿トリや申といった他の登場人物たちも、女であること、孤児であることによって差別を受けて生きてきた。「仏師」は、抑圧の中にあるそれぞれの境遇を精一杯生きようとした者たちの悲劇でもある。

 現実の残酷さから目を離さない「仏師」の物語は、人間は簡単に死ぬという事実を浮き上がらせる。大切な人間を失っていく魚人は、愛も憎しみも混ざり合った慟哭を抱えながら仏を彫るしかない。神も仏も信じていない彼が、最初から仏性を内在している木をあえて彫るのは、命の形を刻もうとするためだ。この物語では、体系化された宗教への信仰以前の、ひとりの人間が神の存在と対峙する姿が描かれている。それは原初的な宗教の姿のひとつではないだろうか。

 繊細さと迫力を併せ持つ絵、武士の謀略を匂わせながら意表を突いていく展開、ひとつひとつの場面のつなぎ方のどれをとっても見事。全体を通しての構成も全く無駄がない。

 傑作。

(OCT/18/99)



高野文子「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」 (アフタヌーン99年10月号・講談社)
 昔、友人が「私はいつも空想ばかりしてるっていうか、白昼夢の中で生きてるようなものだし」と話していたことがあって、彼女を現実主義者だとばかり思っていた僕に少なからぬ驚きをもたらした。でもそういう自分もまた、空想と現実の境目をかろうじて認識できているだけの白昼夢の住人かもしれない。考えてみれば、人ってのはどのくらいバランスで空想と現実の折り合いをつけてるんだろうか。それは外から窺い知ることが出来ないだけに、ちょっと不思議で、突き詰めると恐い気がしてくる問題だ。

 高野文子の新作「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」の主人公・実地子もまた、日常に空想を溶け合わせて日々を送る人物。学校卒業と就職を控える彼女は、授業中でもバスでも布団の中でも「チボー家の人々」という小説を読み耽り、哲学的苦悩を抱えながら革命に燃える若者たちと自分を重ね合わせる。けれど自分を取り囲む現実と物語の世界が重なることはなく、ギャップを感じながらも、実地子は己の境遇の平凡さをあからさまに嘆きはしない。そしてその微かな痛みを描き出す手腕が、高野文子の真骨頂だろう。物語の登場人物達、そして革命の夢に別れを告げ、5巻に渡る長い物語の読了と卒業が訪れるラストの、なんて透き通って暖かであることか。

 物語の舞台は、おそらくは30年ほど昔の田舎。家の中や教室の会話の描写のひとつひとつにまで体温がこもっているかのようだ。その世界に同調できないと読むのが辛いのも確かだと思うが、普通のマンガ表現では不要に思われるようなコマの生み出す独特の間や、映画のような大胆なアングルを使っての構図も従来通り。線はさらにペン先が軽くなった印象で、絵は一般的に可愛いと形容されるようなものではないし、実地子なんて平気で変な顔になったりするんだけど、その表現は見事なまでに雄弁なのだ。

(OCT/18/99)



黒田硫黄「大王」 (イーストプレス)
 おおむね全ての読みきり作品を収録したという黒田硫黄の短編集「大王」を時間軸に沿って読んでみると、その作風の変化には興味深いものがある。「蚊」「熊」「南天」といった初期作品は、欠落と不安を下敷きにした不条理な世界。それが「象の散歩」では、自分には未来がないと嘆きつつ象と暮らしてる男の閉塞感が突然消え去って、ある種の解放感が訪れる。この展開は不可思議ながら爽やかだ。一方、同じように象が去っていく「象夏」では、逆に幸福感が切なさへと推移していく。

 よしもとよしとも原作の「あさがお」は、2人の個性が非常にいい具合にブレンドされた作品だ。そしてタイトルのイメージとは裏腹にとても洒落た物語である「西遊記」の後、黒田硫黄は暴走を開始。冒頭こそノスタルジックな作品に見えた「THE WORLD CUP 1962」は、いつのまにかスケールがむやみに巨大化してしまう。「うまくいじめっことつきあってくしかないんだ」と言う女の子に、「俺が(運命を)変えてやる」と宣言した小林少年がそのまま突っ走り、いじめっこどころか人類の存亡を危機に陥れてしまう展開は、最高に痛快だ。「メトロポリス」も、ロボット→悪の組織→野球→英雄という単語を並べると関連性が見つけにくい展開で駆け抜けながら、ラストでは切なさを残す。

 人間の狡さも残酷さも知った上で、黒田硫黄の作品には不思議な軽さが漂っている。そしてその一方では予想もつかない暴発が。この作品集は、モラトリアムを抱えつつも、胸に収めきれない衝動を表現する術を獲得していく過程の記録でもあるのだろう。書き下ろし作品「まるいもの」のやけっぱちな多幸感も、ユーモアを自在に操るようになった彼の力量を物語っているかのようだった。

(AUG/09/99)



よしもとよしとも「コレクターズ・アイテム」 (KKベストセラーズ)
 よしもとよしともって、読者のモラトリアムな部分を引き出す分、近親憎悪的に語られがちなので損な役回りとも言えそうだ。その分なんだかんだ言われつつも愛され続ける作家だろう。

 「コレクターズ・アイテム」は、80年代の作品を中心に収録した単行本。一番多いページ数を占める「東京防衛軍2」は、本気なのかギャグなのか中途半端な部分があっていまいちだが、青臭さと省略の美学が同居する「6月の桜」は出色の出来だ。

 「98年唯一の新作にして賛否を呼んだ問題作」と帯で紹介されている「アヒルの子のブルース」は、身構えて読んだら気が抜けてしまったほど素晴らしく、まさによしもとよしとも的な作品だった。この作品について賛否が分かれるとしたら、それはこの作品が特定の感覚を直接的に表現するよりも、読者の側から引き出す性質を持っているからだろうか。

(JUL/26/99)