Vol.13 1998-99



奥瀬サキ「フラワーズ」第1巻 (スコラ)
 読み始めてから内容が理解できるまで非常に時間のかかる作品だ。数ページ読み進んでやっと分かることもあれば、いったん前のページを読み返さないといけないこともある。その理解しにくさの理由は、説明的な描写を最低限まで抑えていること、時間軸の飛び方が唐突であることなどに起因するのだろう。そして描かれるのは、殺し屋・ヤクザ・ゲイの娼婦・義父殺し・死体の始末屋などの裏通りに生きる人間たち。白と黒のコントラストが目に強く残る絵、微妙な傾きが不安定感を植え込むような各コマの構図、何の感傷も見せない描写が露悪的なまでに闇を浮き上がらせる。最後の書き下ろし部分は、さながらイメージが理屈を押しのけたカットアップ作品のようだ。そして後への展開を暗示しておきながら、スコラ倒産によってこのまま未完となるかもしれないのもこの作品らしいと言えるかも…というのは今考えたこじつけだ。断続的に情報が示され、それを謎解きのように理解していく気持ちよさをもっと味わい。

 この分かりにくさは癖になる。ひょっとして、調教されるってこういう気分?

(MAY/31/99 この文章は、同人誌『PARKING』に寄稿したものです。)



松本充代「潜む声 鏡の中の遺書 その他の短編」 (アスペクト)
 一時復刊した「ガロ」に発表された作品を中心に収録した単行本。イラストや原作付きマンガ、あるいは「ビーム」での連載などに比べて、復刊「ガロ」での作品は、90年代はじめまで「ガロ」に描いていた頃のテイストに戻っていることに当時驚いた記憶がある。無愛想に塗られたベタ、最小限のトーン。そして、表層的には以前に戻ったようでも、物語はより冷徹さを増していることに気づくのにそう時間はかからなかった。

 「潜む声」の真理は、自分よりも弟を可愛がる母親の愛情を求めるあまり、母親の呪縛にとらわれ続けることになる。母親に愛されるため自分を殺して生きるものの、やがて母親は既に自分を見ていないことを知った彼女は、極端な行動に走る。彼女が選択した行為は確かに「幸福」をもたらしたけれど、それはやはり他者の存在を通してしか自分を確認できなかった人間の悲劇だ。

 「鏡の中の遺書」に登場するのは、正義感が強くて活発、そして可愛いテルと、太めで引込み思案なレイ。レイが好きな男子に告白するよう、テルがちょっと強引に世話を焼いたことが、ふたりの仲が壊れるきっかけとなる。裏切りはクラスでのいじめを招き、そして最後に全てが解決するように見せかけて、もう一度裏切り。このラストに、中途半端に優しげな幻想を拒絶する、松本充代の表現者としての厳しさが端的に表れている。テルの子供時代を描いた「世界の中の一人 全体の自分」を読むと、その印象は一層強まった。

 「過ぎし日 積みし日」では、かつて若くして売れっ子となった小説家が、結婚すると次第に仕事が無くなって日常に埋没していき、そんな自分を肯定するために同窓会へ行くようになる。が、そこで自分と入れ替るように有名作家になった旧友と再会し、彼女は自分が敗北者であることを思い知らされる。これも残酷な物語だ。

 これらに比べると、唯一「ガロ」以外に掲載された「Weed of the Shallows」は、メルヘンチックな印象すら受ける。暖かいけれど、生温くもあって居心地が悪い。

 松本充代は、その初期において思春期的な自我の軋みを描き続けた作家だった。それに対して現在の彼女は、幸福の中の不幸・安定の中の揺らぎを捉えて描き出す。本質的には何も変わっていないけれど、彼女の観察眼は対象をえぐるような凄味を増していた。

(MAR/15/99)



かわかみじゅんこ「少女ケニヤ」 (宝島社)
 読んでる最中に、やり切れない気分になって叫びたい衝動に駆られてしまうようなマンガがあり、優れた作品は少なからずそうした性質を持っているような気がする。まぁそんな衝動に駆られるのは俺だけかもしれないが、要は人を突き動かすエネルギーがあるってこと。かわかみじゅんこの「少女ケニヤ」もまたそんなマンガだ。他人との接触欲求は考えてみるとよく分からないものだって事実をチクチクと突いてくる。

 「わかさわん」の主人公・チサにはずっと彼氏がいない。そして友人の鹿ちゃんの愛想の悪い彼氏に、あてつけみたいにキスをせがんで、周囲にその噂が広まってしまう。

鹿ちゃん「あたしの彼氏のこと好きなの?」
チサ  「ううん」
鹿ちゃん「あたしも/でもあやまってあれはあたしの彼氏だから/あたしはいつもあたしを好きな人がいないとだめなの」
そんな鹿ちゃんの言葉を聞いて、チサはきらめく夏の木々を見ながら思う。「みんなちゃんと見えてるわけじゃないのか」。何から何まで分かんないままなんだけど、分かんないままの気分を美しく描き出している。

 「あした泣くかも」と「少女ケニヤ」は対になっていて、るみとかなめがそれぞれの主人公。るみの彼氏はすぐ泣く男で、セックスするかしないかでモメてばかり。かなめは、そんなドタバタやってるカップルの不条理さが不思議で仕方がない。ところが幼なじみと再開して抱きしめられた彼女は、いきなり自分の中で「けものの血がたぎる」のを知る。恋を知ってからと恋を知るまでを、うまく対にしている。感情も感覚も全て単なる気のせいかもしれないと気付いた女の子の、健やかで伸び伸びとした暴走を描いた「アニマルロジック」も読んでて気分がいい。

 自分が愛されることには興味が無くて、ただ「かわいい」と言って欲しがる女の子を描いた「GOLDEN DELICIOUS APPLE SHERBET」や、漠然と近付いてくる世界の終わりの予感中で、何も分からないけれど自分がラッキーだと感じる「グッドモーニング」など、かわかみじゅんこは結構いろんな作風をものにしてる。前者はちょっと南Q太を連想したけれど、後者は読んでるこっちもよく分からないくて、「私は分からない」という感覚をポーンと提示してしまっている点に不思議な余韻が残る。成功してるとは言い難いけれど、曖昧な感覚をすくいとろうとして彼女はかなり高度な表現に挑んでいるようだ。

 扉を含めて8ページの「おもなみ」は、後半で見開きをバーンと使っていて、次のページからは語り手が変わる。「あかずのふみきり」は、男が話す様子を聞き手の恋人の視点から延々と描写。こういう方法論の面でも意欲的で、彼女への期待もますますでかくなるというものだ。

 ピュアさもオッケー、それが馬鹿さでもオッケー。かわかみじゅんこは見つめ合うキャラの目がいいのだ。

(FEB/09/99)



園山二美「蠢動」 (アスペクト)
 この園山二美の初単行本を初めて読み通した時には、かなり奇妙な印象が残った。表現衝動が噴き出すような作品もあれば、方法論が優先されているような作品もあるし、普通のラヴコメみたいな作品もある。ヴァリエーションが多くて落ち着かないぐらいだ。そして、作品によって表情をコロコロ変えながらも、時として異様な突出をみせる。

 冒頭の「狂人遺書」は、死のうとしているはずなのに余計なことばかりして結局死ねないマンガ家が主人公。これでもかというほど感情吐露を読者に向けて投げつける。恥ずかしいことを百も承知でありながら、それでもこんなマンガを描こうとするなら、それは自傷行為のようなもの。けれど、そうした激情を表現しながら、読者に話し掛けたり、「今まで面倒やから背景手ぇ抜いてた」と言って突然背景を増やしたりするなど、マンガの文法の枠組みをいじってみせるメタな手法も取り入れてる。衝動に筆を任せているようで、ラストは妙に静かに終わるなど、演出も計算されている。絵も非常に上手い。

 また、複数のキャラの視点が交錯して最終的に一つの対象へ収束する「一人の夜」と、妙なタイトルの種明かしを最後にする「信長」は構成が巧みだ。けっこうトリッキー。かと思うと、パンツまみれの「サルマタケ」のような変な話や、「狂人遺書」より後に描かれたとは思えないほのぼのコメディー「コンビニキング」もあったりする。後者なんて星里もちるみたいだ。

 「狂人遺書」が現在の苦悩の吐露なら、「宇宙のはじまり」は過去の自分を見据えた作品かもしれない。ズル休みが高じて、大きな理由も無いまま中学校に通わなくなってしまった14歳の少女「ふたみ」は、過去の作者自身だろうか。語るべき物語が自分には無いと感じる彼女は、特別な子になりたかったと考える。自分をひとかどの人間だと思いたい、自分だけの価値を探したい、他人との差異を見出したい。それは誰にでもある思春期的な(そして思春期だけで終わるとは限らない)自意識だ。痛い性質のものだれど、これを厭味なく描いている。日常に潜む疎外感や穏やかな孤独の中で、「蠢動」という言葉の意味へとつながっていく展開は、派手こそ無いが読ませる。そして感動的だ。

(FEB/09/99)



桃吐マキル+福耳ノアル「森繁ダイナミック」 (KKベストセラーズ)
 まさかの単行本化。太っ腹だね、KKベストセラーズ。ギャグマンガ界の極北夫婦が、94〜96年に「ヤングサンデー」などで断続的に連載した爆裂女子高生学園マンガだ。

 数年振りに読み返して気が付いたのは、奇天烈な印象ばかりが残っているこの作品が、意外と起承転結のついたものであるということ。ただ、ひつとひとつのネタが本筋から無軌道な外れ方をしていて、それが物語の流れの連結性を犠牲にせんばかりの勢いなのだ。ギャグをぶちかまして、次のコマでは平静に戻ってたりするのも、素敵にタチが悪い。つまりは、基本を押さえているからこそ、特異性が生肉の脂のようにギラギラと光るわけだ。あと、この好き嫌いが分かれた(というか嫌いが圧倒的に多かったんだろう)理由として、この描線の歪みも挙げられるだろうけど、これはどう見てもわざとだよな。平気で全然違う絵柄を混ぜたりもしていて、そうした作画とストーリーの両面で通常のマンガ表現を逆手に取り続けていたわけだ。

 もっとも、そうした手法は同時に自分たちの首も締めかねないわけで、連載中はけっこう当たり外れが大きかった記憶がある。しかしこの単行本はベスト編集なので、「こんなに面白かったっけ」ってぐらい楽しめた。出鱈目のようで、実は計算された展開だ。それでも着地点がどこになるのかが本人たちにも見えづらかったことは想像に難しくない。向こう見ずなギャグが虚無を生み出すかもしれないのに、それを恐れず果敢に爆裂し続けたその姿勢を、勇気と呼ばずに何と言おう。

 ところで、福耳ノアルって昔は「福耳ノボル」じゃなかったっけ? たしか彼は「少年ジャンプ」、しかも週刊の方で入賞してデビューした作家だったと記憶してるんだけど、その徹底してねじくれた受賞作に僕は爆笑したもんだ。でも「ジャンプ」にとって彼は、取り扱いに免許を要する危険物のような才能だったに違いない。こういう異才が、ソロとしても再びペンを執ってくれればいいのに。

(FEB/09/99)