Vol.3 1997



落合尚之「黒い羊は迷わない」 (週刊ヤングサンデー・小学館)
 時代の空気と見事に合致して、大きなうねりを生み出す作品というものがある。エヴァはその典型だった。しかしやり切れないのは、本当なら評価されるべき作品が正当な評価を受けられずに、不遇な終焉を迎えた場合だ。それを改めて痛感したのが、「ヤングサンデー」で連載されていた、落合尚之の「黒い羊は迷わない」の終了だった。

 主人公は、洗脳された人間を「解体」するデプログラマーの男。97年前半に連載された第1部では、彼がかつて潰したカルト教団にいた少女を、憎しみの底から救済する物語だった。第1部というのは、つまり1回体よく連載を終わらされてしまったのである。

 この男と少女が組んで、「解体」の依頼をこなしていく…というのが、その後始まった第2部だった。ずいぶん方針転換したなぁ、でも人気を得るためなら仕方ないか、と思って読んでいたのだが、それも数ヶ月で終わってしまったのだ。まだ1つしか事件を解決してないんだぜ。

 ここまでの説明で勘のいい方は気づくと思うが、この作品のベースには、いとうせいこうの「ワールズ・エンド・ガーデン」と「解体屋外伝」がある。これらの本を読み終えていた僕は、このマンガが始まった時には胸が高鳴った。まさにストライク・ゾーン!って感じで。しかし、この物語は単なる宗教モノにとどまらなかったのだ。孤独に苦しんで、無条件に依存できる存在を求める弱い人間(=羊)の姿と、そこから抜け出す道を指し示す見事な作品だった。それはいとうせいこうを起点とし、オウムを通過し、エヴァとも大きくシンクロしていた。いや、時代の抱える虚無と向かい合うという点では、エヴァ以上に意図的であり、真摯な作品だったと断言できる。まさに、今読まれるべき傑作だったのだ。

 第2部でも、その見事な幕引きに感動させられた。感傷に流されることなく、冷酷な現実の姿と希望の両方を同時に提示していた。第3部はもうないかもしれないが、あまりにも惜しい。惜しすぎる。

 この作品がどれほどの人々の記憶に残るか、僕にはわからない。しかし、もし10年後に誰かが読んだとしても驚きと感動を与えてくれるような、普遍性を持った作品だと確信する。だから、せめてここに記録しておきたいのだ。



山本直樹「フラグメンツ」 (小学館)
 彼の作品がエロマンガなんて枠を突き抜けているのはもはや当然のことで、セックスが描かれていても、それは読者を人間の持つ闇の中に連れ込む罠にすぎない。死のうが生きようが人間から消え去ることない、存在自体が抱える不具を剥き出しにしている。

 物語はどれも静謐なトーンで紡がれ、それゆえに読み手に与える「重さ」も強烈だ。読んだ後に言葉を失ってしまう。構成力も卓越していて、続き物でも1話ずつが見事な展開を見せる。選挙運動・サメの絵など、読み終わった後で「あれが伏線だったのか」と気付かせる伏線の張り方も効果的だ。そして最後には、ある種の恐怖すら感じさせる。

 彼の作品の多くは、事件が起きたとしても結局は何も変わらない。閉塞感を抱えたままで、ただ以前と同じ日常がまた続くだけだ。安直なアンハッピーでもハッピーでもない終わり方によって、読者は自分のいる現実へと引き戻され、放置されてしまう。なかでも、マゾの男の日常への回帰を描いた「夕方のおともだち」が素晴らしい。主人公を待っているのは、結局「宙ぶらりん」なままの日常だ。

 この著作集の中では「世界最後の日々」が不条理限界値最大だが、それは彼が新しい表現へ向かっているを告げているのだろう。

 …関係無いけど、欧米じゃこういうのってチャイルド・ポルノ扱いで発禁なのかな?



関川夏央・谷川ジロー「不機嫌亭漱石」 (双葉社)
 これは正座をして読みたくなるマンガだ。本当に正座なんてしないが、たとえ寝転んで読むにしても、気分は襟を正してしまう。文学とマンガを区別して語るのもナンセンスだが、この「坊ちゃんの時代」シリーズは、旧かな使いの文芸書にも似た重厚感を感じさせるマンガだった。

 その第五部「不機嫌亭漱石」は、いよいよこのシリーズの完結編。死の直前の漱石を通して、近代の日本人の自我を描き出している。死の淵で漱石が見る夢は、失ったものや残してきたものへの寂寥に満ちている。関川夏央は、明治時代こそが現在にいたる日本人の精神性が確立された時期であると語る。漱石の自我の軋みは、現代の我々も自我の歪みと同質であり、死の淵から帰還して身体が良くなるほど不機嫌になっていく漱石の姿も、物質的のみに満たされている我々の姿と同質のものだ。

 朴訥としたユーモアと、社会に対峙する人間の無力感を同居させつつ、それでも決して悲壮感を漂わせることがない。胸に一抹の寂しさを残しつつも、極めて爽やかな読後感を残してくれる。自分には程遠い大人の味わいというやつだ。ラストなんて、「やってくれるよ〜」と苦笑いしてしまうほどに鮮やかだった。

 関川夏央と谷川ジローは、全共闘世代のオヤジの気概をしっかりとこの若造に見せつけてくれたぜ。



とり・みき「遠くに行きたい」 (河出書房社)
 前衛と呼ばれる種類の表現は、たいがい作者の気負いが透けて見え過ぎていて、見ている方が恥ずかしくなることが多い。それに成功するのは、研ぎ澄まされたセンスと、自分を客観視する能力を持ったごく一部の人間だけだ。そして、「遠くに行きたい」の作者であるとり・みきは、まさにそうした才能を持ち合わせた1人なのだ。

 といっても、この作品には、特に前衛を目指した痕跡は見当たらない。しかし、完全にセリフが無く、正方形9コマという変則的なコマ構成で描かれるこの作品が、現在の他のマンガと一線を画するのは一目瞭然だ。説明的な表現は皆無で、無音の中で淡々と展開する。これだけでも特殊だが、このマンガで描かれるアイデアが、またとんでもない奇想ばかりなのだ。沈黙と奇想。この取り合わせが、読み手に恐るべき凄味すら感じさせることになる。

 とり・みきというマンガ家の本領は、「間」の表現にある。とにかく絶妙の間合いで、読む者の感覚を揺さ振りにかかる。その間の独自性ゆえ、メジャー誌では不遇な目に遭ったりもしたが(週刊少年サンデーで連載された「てりぶる少年団」はなんと8週で打ち切り)、この「遠くに行きたい」はその完成形だ。最小限の演出で最大の効果を挙げ、無駄が全くない点にも驚かされる。完璧だ。

 僕が彼のマンガを最初に読んだのは、小学2年生の頃になる。この歳になるまで彼のマンガを読み続けているのも、実はその時のトラウマゆえなのかもしれない。しかし、僕にとってとり・みきが日本で最も敬愛するマンガ家であることに変わりはなく、彼が今も最前線を走っていることが単純に嬉しくて仕方なかったりもするのだ。ああ、いつか本人にお礼が言いたいよ。



山川直人「ぼくはきみより頭がいい」 (同人誌)
 非常に完成された彼の絵柄は、一見ほのぼのマンガを連想させる。しかし彼のマンガの底には、畳から染み出したような情念も流れている。この同人誌に収録された「たちくらみ」では、理想の追求の果てに死に至るマンガ家の狂気すら描かれているのだから。

 個人的に最も読み返したのは、漫画家を目指して一度は実現したものの挫折し、恋人を傷つけて別れ、ひとりになって再びマンガを描くことを選ぶという物語の「ひとりあるき」だ。これは、かつては「ヤングチャンピオン」で連載を持っていた山川自身の体験を元にしたものだろう。エゴを隠すことなく描くからこそ、切なさが一層深まる。再会したかつての恋人に、「私とのことだってアレンジして作品にすればいい経験だったですむんだものね…」と言われる場面の痛みは強烈だ。

 絵柄の印象が強すぎるが、コマ割りは洗練されていて、コマの表現も実に工夫されている。

 自分と他者との間の軋轢を見据える彼は、決して声高に叫ぶことはない。むしろ夜の中で囁いているようだ。そんな痛みに満ちた作品たちがこの本には収められている。

(この本は、コミティアなどで入手可。サークル名も「山川直人」)