Vol.27 2000



村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」 (新潮社)
 阪神大震災を直接体験してはいないけれど、それと何らかの接点を持つ人々を描いた6篇の連作小説。描かれるのは家族との断絶であったり、忘れ難い憎しみや神と自分との距離であったり。震災による死者が単なる数字として処理されてしまう現実に抗うかのように、個人の抱える内面とその重みを描き出している。

 核心を淡くぼかしながら、時に少し謎めいた設定を絡め、かと思えば実も蓋もないほどストレートに語りかける文章は、やはり村上春樹の魅力だ。家出少女と焚き火を愛する男が一緒に死のうと語り合う「アイロンのある風景」のラストには、お互いの心に入りこめないまま孤独を溶け合わせるかのような切なさがある。表題作「神の子どもたちはみな踊る」で、主人公が誰もいなければ音もない夜のマウンドで踊る場面も、その律動によって自身の存在を確認する描写が清々しい。

 運命に操られつつもそれぞれに道を選び進む登場人物たちを適度に距離を置いて描く筆致は、冷めていながら微かな温もりがある。善きものも、悪しきものも包み込むように。

(APR/17/00)



角田光代「地上八階の海」 (新潮社)
 この単行本に収録された「真昼の花」と「地上八階の海」の情景描写には、感覚の繊細さというよりも、視界に映るものを過剰に観察してしまう一種の強迫観念のようなものを感じる。それは自分と外界との間に存在する違和感に起因するものだろう。そして、「真昼の花」は一人旅の途中であるアジアのどこかの国、「地上八階の海」は母や兄家族とすぐに会える日本という設定の違いこそあれ、根底にあるテーマはともにそうした外界との違和感だ。

 「真昼の花」の主人公は、旅立ったままの兄を探して自分も旅に出るものの、途中で旅の目的を見失い、やがて自分を取り巻く物と自分自身との距離の大きさに気付く。「地上八階の海」では、別れた男が異様な手紙をポストに入れ、無言電話をかけ続け、母は兄夫婦と同じマンションに引っ越したものの、過去の思い出に溺れてしまったかのように荷物を片付けることすらできないまま。そして主人公は、マンションの一室でひとりで電話番をするだけの仕事をこなす日々だ。誰も孤独を感じてはいないようだけれど、それぞれが浅からぬ断絶の中で過ごしていて、主人公は恋愛や結婚についての感覚が自分と周囲の人々では大きく違っていることを確認して物語が終わる。

 角田光代の描く物語に登場する主人公たちは、周囲との折り合いをつけることを自発的にはしない。その姿勢はどこか愚かしくもあるけれど、しかし冷静で丹念な心理描写が読み手を同調させてしまうのだ。困ったことに。

(APR/10/00)



宮沢章夫「サーチエンジン・システムクラッシュ」 (文藝春秋)
 「サーチエンジン・システムクラッシュ」を読む際に僕が過剰な期待をしてまったのは、宮沢章夫が劇作家・演出家であるためだった。エッセイストとしても知られるだけあって、描写過多に陥ることなく心理を浮きあがらせるスマートな文章は非常に巧みだ。

 大学時代に同じ「虚学ゼミ」で学んでいた首藤が殺人事件を起こし、主人公はそれをきっかけにかつてのゼミ仲間に連絡を取るものの、そのゼミの講師の名はなぜか他の仲間と一致しない。そして、そもそもそんなゼミが存在したのかも謎に。ある種の不安に突き動かされた主人公は、池袋から新宿へと引かれた赤いチョークをさかのぼり、卒業後一度だけ首藤と出会った風俗店を探して違う風俗店に入り、そこで出会った女と待ち合わせをした喫茶店を探して回り、彼女の部屋のテレビの配線をするために電気屋へでかけ…。何かを回避するかのように記憶は次から次へと過去へと消え去り、時間も地理も曖昧になりつつも主人公は歩みをひたすらに進める。それが単に思わせぶりなだけなのか、それとも緻密に構成されているのかと聞かれたら間違いなく後者だろう。最後の最後ですべての伏線は過去の一点へときれいにまとまっていく。

 けれど同時に、「ゼロになりたい」と願う主人公のこの物語は、言い換えてしまえばひたすら実存への問いかけに終始していて、それはあまりにも文学的なフォーマットの中に収まっていた。この作品が芥川賞候補作になったことも、良くも悪くも納得できてしまうのだ。この文学的な退屈さを乗り越えるには、僕はまだまだ修行が足りない。

(MAR/21/00)



青木理「日本の公安警察」 (講談社)
 一種の聖域と化している組織に対して、その人間臭い側面に光をあてながらアプローチする手法はなかなか有効だ。活動内容や資金の動きが外側からは非常に見えづらい公安警察の、利権の獲得や組織の保身を重視しがちな体質や、ピラミッド型の中央集権体制による弊害などを指摘した「日本の公安警察」を読むと、そのことがよく分かる。この本を筆者が書いたきっかけは、盗聴法・改正住民基本台帳法・ガイドライン関連法・国旗国歌法などが自自公連立政権のもと次々と成立し、国家による治安管理機能が強化されている現状への危機感だという。それだけに、チェック機構が有効に機能していない公安警察に対して本書が提示している疑念はかなり説得力を持っているのだ。

 けれど、そうした政治的な意図から離れても、不謹慎な言い方だがこの本は面白い。公安の活動の歴史は、共産党・右翼・左翼・オウムなどとの闘争史そのものだ。国松警察庁長官狙撃事件で公安警察官が関与していたことが怪文書で公表されたり、革マル派にデジタル無線を解読されていたりした事件も、この本で改めて読むと公安警察組織の体質に起因する問題点が見えてくる。また、尾行や潜入はもちろん、特に調査対象の組織に内通者を獲得するために、金銭授与によって心理的に対象をからめとるくだりは、もう警察とかいう次元を超えたスパイ小説のようだった。いや、スパイ活動そのものだが。

(MAR/13/00)



中村とうよう「ポピュラー音楽の世紀」 (岩波書店)
 中村とうようほど音楽評論に影響力を持ち、しかも偏屈なキャラクターを通している人物もいないだろう。そして「ポピュラー音楽の世紀」を読むと、悔しいことにこのオヤジを乗り越えていくことはなかなか難しそうだと思ってしまう。全編アメリカの音楽業界への批判的な視点が貫かれているのも、やや感情的な部分もあるが、良くも悪くも中村とうようの個性ではある。

 市場経済に基づく大衆社会が成立した20世紀以降に生まれたのがポピュラー音楽であり、それは音楽家と聴衆の間で商品市場が作品を流通させるシステムの上に成り立っているというのが本書での定義だ。楽譜出版社の誕生からレコード産業の形成、そしてジャズやロックの誕生など、アメリカの音楽産業の成立と発展をひとつの軸にしつつ、世界中の地域のポピュラー音楽を解説していく。カリブやラテンアメリカからアフリカ・アラブ・アジアまで、紹介される地域も音楽も非常に多岐に渡るので、この類の本を初めて読む人は混乱するかもしれないが、ある程度の知識がある人が各地の音楽の成立過程を整理するためには有益だ。音楽的要素はもちろん、その音楽が形成されるまでの社会的背景にも触れられているので、これは音楽の面から見た世界史であるとも言える。

 中村とうようはかつてヒップ・ホップを毛嫌いしていたはずだが、ヒップホップの方法論をジャマイカ音楽の影響であると説明しながら本書で紹介している点に、時代の流れを感じた。

(MAR/06/00)