Vol.26 1999-2000



松村昭宏写真集「The Cosplayer」 (扶桑社)
 コスプレイヤーをひたすらに撮影したこの写真集で特筆されるべきは、なにより被写体の背景の画像処理だ。背後の物や人の一切を消し、被写体となるコスプレイヤーの周囲を一色だけで埋めてしまう画像処理は、コスプレという行為が成立するための一切の文脈からコスプレイヤーを切り離してしまう。会場の非日常的な空気というのもコスプレにとって重要な成立要素だと思うのだが、そこからコスプレイヤーだけを切りとっているわけだ。そうなると、デザイン・素材・色などのコスプレ衣装の特異さと、それを三次元の生身の人間が着用していることの奇妙さも前面に押し出されてくる。「The Cosplayer」は、そうしたコスプレという服飾表現を冷徹かつ淡々と記録している写真集だ。

 写真に付記されたコスプレイヤーたちのアンケート回答では、キャラクターへの同一化よりも非日常的な場での自己表現を望み、コスプレを通したコミュニケーションを求めている姿が浮き彫りにされている。コスプレイヤーが必ずしもオタク的な文化への興味を強く持ってはいない傾向は強まっているようだが、それでもアニメ・マンガ・ゲームなどのキャラクターに扮するのは、それを自分への簡単なキャラクター付けとして利用しているからかもしれない。その目的は、もちろんコミュニケーションだ。

 その一方、MALICE MIZERなどビジュアル系バンドのコスプレをしている人々は、コスプレの対象であるミュージシャンとの同一化を求める感覚が比較的強いように感じられる。99年の冬コミでは椎名林檎のコスプレが多かったこととあわせて考えると、やはり憧れの対象と同一化するシステムとして、服飾という記号はまだまだ有効に機能しているのだろう。

(MAR/06/00)



黒沼克史「少年にわが子を殺された親たち」 (草思社)
 現実的に言って、少年法が改正されることは当面ないだろう。酒鬼薔薇事件の際にあれほど改正を求める世論が高まったのに実現されなかったのだから、それほどこの国は青少年の更正に配慮していると言えるかもしれない。けれど、誰もが更正ができる可能性と同時に、更正できない場合もある可能性をも想定できないとしたら、その想像力の欠如は罪にも等しい。ヒューマニズムは時として人の視界を濁らせる。もっとも、酒鬼薔薇事件の時の論議が「けしからん」程度の感情論が主体であったことも否定できない事実なのだが。

 「少年にわが子を殺された親たち」は、「少年犯罪被害者当事者の会」のメンバーのうち六家族の事件以後を追ったルポタージュ。突然子供を殺された親たちは精神的に追い込まれ、自己否定を繰り返し、家族にあたり、宗教に救いを求めることすらあるけれど、その傷が癒えることはありえない。加害者側の供述を鵜呑みにする捜査、その警察発表を垂れ流すメディア、そして中途半端な同情を見せる一方で遺族に不条理な沈黙を強いる世間。本書で描かれる家族の精神的苦痛は、読んでいてページをめくるのが辛く感じられてくるほどだ。

 しかし黒沼克史は、取材対象と親密な関係を築いて彼らの悲しみや怒りに同調しながらも、本書では決して感情論を煽ってはいない。彼が訴えるのは現在の少年犯罪をめぐる法の欠陥であり、つまり被害者の遺族に事実関係すら知らされない現状だ。事件の経緯を知ろうとするならば民事訴訟を起こさねばならず、それは被害者側に訴訟費用の経済的な負担と、世間から金目当てではないかと誤解される心理的な負担の両方を負わせることになる。現行の法システムは加害者の更正にばかり目を奪われており、そうした理想の一人歩きがかえって事件の追究を疎かにしているために、結果的には加害者を更正させることすら満足に果たせていないのではないか。「少年にわが子を殺された親たち」は、被害者の側の視点を通してそうした問題点を浮き上がらせる。

 「少年犯罪被害者当事者の会」が求めているのは少年犯罪の厳罰化ではない。それを一概に感情論に基づく少年法の改悪と呼ぶ声があるならば、それこそが感情論だろう。「死んだ人は戻らないのだから」と遺族の発言を嫌う無神経な偏狭さがまだまだ世間に根強いのも現実だ。

 いつでも不幸は突然に襲ってくるのだろう。一時たりも自分から引き剥がすことのできない不幸を背負わされる恐怖を、最近よく考える。

(JAN/24/00)



柳美里「女学生の友」 (文藝春秋)
収録された「女学生の友」と「少年倶楽部」の題名は、ともに昔の子供向け雑誌の名前から引用されている。それぞれで描かれているのは、援助交際をしようとする女子高生と、レイプ未遂事件を起こす男子小学生。皮肉というより悪意すら感じさせる題名だ。

 淀んだ空気や湿った欲求を描写する彼女の力量は相変わらず。たとえ他人の笑顔を見てもその裏を探るかのような心理描写は、露悪的な快感すら与えてくれる。

 父の事業が倒産寸前となり援助交際をしようと決めた女子高生と、定年退職してから妻もないまま性欲を肥大させていく老人の物語である「女学生の友」は、ちょっと意外なほどユーモラスな展開だ。しかし、老人は社会の外側へ押し出されて途方に暮れることに。その一方、「少年倶楽部」の主人公である少年は、社会の秩序に取り込まれることで安心感を得ることになる。問題が何ひとつ解決しないまま迎える両作品の皮肉なラストは、やはり巧い。

 しかし、「ゴールドラッシュ」でも感じたのだが、最近の柳美里の小説はドラマツルギー過剰気味で、一歩間違えばベタベタになりかねない。「少年倶楽部」では、父親が浮気をしたり暴力を振るったり、あるいは在日朝鮮人であるためにいじめを受けたりと、小学生の性衝動を暴走させる原因がこれでもかと明示されている。そして、時代性を持たせるべく頻出する固有名詞は気恥ずかしくなるほど。現代社会と対峙しようとする彼女の決意は全編から感じられるものの、現在において本当に不気味なのはそうした明確な原因を越えた曖昧模糊とした何かから事件が起きることなのではないかとも思い、少し空回りしている印象を受けた。

(NOV/29/99)



文藝別冊「Jコミック作家ファイル・BEST 145」 (マガジンハウス)
河出書房新社  「J文学」という言葉の裏には、コンプレックスに起因するストリート的なものへの幻想や、サブカルチャーへの過剰な意識があったのだろう。同時代的であろうとしつつ、商業的戦略としての一面も認めて開き直る姿勢には魅力もあったけれど、「文藝」の誌面には微かな無理も感じられるようになってきた。

 そして今度は「Jコミック」。文藝別冊「Jコミック作家ファイル・BEST 145」でのセレクションは、ほとんどが知っている作家、しかも新進作家よりはすでに安定した作家が多く、保守的な印象すら受ける。同じ版元から初単行本を出した山口綾子が載っているのは商売上手だとは思うが。また、それぞれの評者が挙げると思われる「MY BEST 3」は、単行本化されたものを含めるかどうかがバラバラで、人によっては同じ作品を巻ごとに挙げていたりする。ガイドブックにしようとするなら、基準を揃えるべきだろう。

 誌面では各作家についての評論が長めだが、あからさまな文字数埋めや、その作家の作品をいくらも読んでいなかったりするものがあるのには閉口した。晄晏隆幸の文章のクオリティは相変わらずの高さ。また川口俊の指摘によれば、鈴木志保の「船を建てる」はRobert Wyattの「Ship building」という曲からの引用だそうだ。いい話を聞いた。

(NOV/29/99)



枡野浩一「君の鳥は歌を歌える」 (マガジンハウス)
 枡野浩一という人は純粋に「言葉の人」だ。以前、原稿の「てにをは」を含む一字一句を電車の中で考えながら来たと彼が話すのを聞いて驚いたのも、そうした言語表現に対する徹底したこだわりを感じさせられたからだった。「君の鳥は歌を歌える」も、そんな彼の言葉に対するセンスを見せつけてくれる。

 映画・小説・マンガ・音楽・演劇・詩・ホームページなど、語られる対象は広範囲。同時にそれぞれの作品に対して短歌化の試みも行なわれ、そこには文字数が同じ短歌や、それより少ない川柳まで含まれている。そして、「君の鳥は歌を歌える」の帯には「レビュー&エッセイ」とあるが、僕は批評集として強いインパクトを受けた。おそらく彼にしてみれば理論的な構造分析などはたやすいだろうがそれに終始せず、普通ならば流してしまいそうな文章やセリフのほんの一節に注目し、作品の世界を解きほぐす作業が展開される。

 そして短歌化。対象のどこに焦点を当てるか、どう語るかの選択を求められる批評もまた表現の一種であると言えるけれど、枡野浩一はさらにその先へ進み、自分に響いて来た部分を対象から抽出して31文字に圧縮する。自信家であるかのような発言を繰り返す彼にしては珍しく、元の作品を短歌化で越えることは難しいと認めているものの、枡野流に変換されて生まれた短歌に魅力を感じるのは、僕が彼の短歌のファンであるためだけではないだろう。それは、批評しかできない人間には歯軋りをしたくなるほどだと告白しなければならない。

 枡野浩一本人も語っているように、彼は自分が本当に好きなのだろう。しかしその彼が好きな物について語ろうとする時、単純な自己愛の投影に陥ることなく、自意識を際どい水準で見せながらも、強い集中力をもって作品と対峙している。その点がこの「君の鳥は歌を歌える」を特異な批評集にしているのだ。

(NOV/15/99)