Vol.23 1999



リリー・フランキー「日本のみなさんさようなら」 (情報センター出版局)
 リリー・フランキーの「日本のみなさんさようなら」は、500字弱で見せる文章芸の集大成だ。日本映画についてのコラムながら、映画自体を解説することはむしろ稀。映画によって触発されたアイデアを短い字数で表現するため、冒頭からいきなり深い洞察が始まることが多く、その迷いの無い斬り込み方が魅力だ。それは語られる内容が下品であれ高尚であれ、男であれ女であれ、映画であれ思い出話であれ変わりなく、ちらりと人生と呼ばれるものの影がかすめるのが隠し味。写実的に描くと似顔絵が似てるのに、リリー・テイストに持ち込もうとすると途端に誰だか分からなくなるのが唯一の難点だった。俵万智のイラスト、すごすぎ。
(JUL/12/99)



小谷野敦「もてない男 ― 恋愛論を超えて」 (筑摩書房)
 小谷野敦の「もてない男」において「もてない男」とされているのは、セックスをしているかや外見の美醜に関係なく、好きな女に愛してもらえない恋愛下手な男のこと。つまり、他者を求めようとしても「恋愛」という形で獲得できない男のことだ。そして、童貞・自慰・恋愛・嫉妬・愛人・強姦・反恋愛などについて考察していくわけだが、童貞であることや喪失の不安、日本オナニー史、「女は押しの一手」なんて言っても所詮もてない奴はダメ、一夫一婦制の虚偽、強姦に関しての筒井康隆の発言批判など、自虐的なまでにスリリングな視点で展開していく。最後に行き着いたのは、恋愛以外に楽しいことが今の日本に存在するのかという、恋愛不要論が直面する問題だった。

 この本の魅力は、古今東西の文学や評論・マンガなどを数多く引用する研究・論説的な部分はもちろん、その語り口であることは見逃したくても見逃せない。本人もあとがきで述べているように、この本はむしろエッセイと捉えるのが妥当と思えるほど面白いのだ。「やけくそだから実名を挙げる」と宮台真司らを「女にもてる男フェミニスト」と批判するなど一切の嫉妬を隠さず、時として自分の経験を赤裸々に語って読者にいらぬ憶測を膨らまさせる。長年鬱積したルサンチマンがもはや心身の一部となり、いつも少し青筋が浮いているかのような雰囲気。「嫉妬・孤独論」での放熱具合は尋常ではない。

 しかし、やたらと引き合いに出す上野千鶴子を念頭に置いてか、対フェミニズム戦略も垣間見える。ルサンチマンは、すでにひとつの芸風として昇華されているのでだろう。ただ小谷野は、自分にも今では「ファン」がいることを認めつつも、以下のように述べている。

そういう付加価値がなくて一番切実に異性に飢えていた学生時代にはほんとうにもてなかったのである。その怨念だけは忘れられないし、これからだってどうなるかわかりはしない。
こう語る彼のことだから、「俺は昇華なんかしなくていいから学生時代に恋愛がしたかったんだよ!」と言いそうであり、そう言われると僕ももらい泣きをするしかないのだ。恋愛ルサンチマンを抱える男なら、間違いなく胸の震える本。
(JUL/12/99)



重松清「エイジ」 (朝日新聞社)
 自分が中学生の時に何を考えていたのか、僕にはさっぱり思い出せない。思索などとはとても言えないけれど、確かに考えていたはずの数多くのことは消え去って、記憶の表面はつるんとしている。いや、それを言うなら大人になった今だって、無駄に頭をこねくり回しては大半を忘れ去っているのだけれど。僕はそんな人間であるだけに、14歳の中学生を描いた「エイジ」の心理描写の細かさに驚かされた。

 学校、休部中のバスケ部、片思い、好きではないけれど付き合っている女の子、どこか演じているような雰囲気のある家族。主人公・エイジの住む新興住宅地で起きた連続通り魔事件の犯人が同級生であったことをきっかけに、エイジを縛るそんな要素はさらに重みを増していく。そして彼は自分と犯人を重ね合わせ、抱えている暴力衝動を膨らませる。エイジが「キレる」という言葉に感じたのは、周囲との関係性が「キレる」ということであり、それは彼の願望でもあった。

 この作品で特筆すべきなのは、中学生たちを安易にダメだと決め付けもしない代わりに、本当は純粋な心を持っているのだと安直に考えてもいない点だ。エイジの友人・ツカちゃんが、テレビにインタビューされてつい悪態をついて、放送を見て自分で落ち込んでしまう部分には、酒鬼薔薇事件の際に彼の行動に一定の理解を示す発言をした中学生たちの心理を作者が理解しようとした跡が感じられた。言いたいことを言うことが格好悪く思えて何も言えず、それが逆に閉塞感を強めて暴発寸前にまで達するエイジの心理も非常に丁寧に描写されている。嫌な世の中だと嘆く大人たちを横目に、悪意もあれば善意もあるのだと生きる少年たちの姿も清々しい。

 ただそれだけに、犯人の中学生がクラスに戻ってくる場面は、あまりに肩透かしだった。教師であるエイジの父によって、少年法についての「講義」まで途中にあるのに、これでは暖かくも冷静な視点が最後に来てぼやけてしまった印象だ。「まぁ、朝日新聞に連載されていた小説だからねぇ」と諦めるのは、意地が悪いかもしれない。

(JUL/12/99)



村上春樹「スプートニクの恋人」 (講談社)
 久しぶりに彼の作品を読んで気付かされたのは、驚異的なまでに洗練された文体だった。すらすらと読めて、しかも適度な割合で、機知に富んだ文学的修辞が差し込まれる。例えばオリーブの種を捨てる様子を、「まるで詩人が句読点を整理するみたいに」と表現してみたり。

 愛情と好意と性欲とがすれ違い続け、修正する手だても無く、孤独だけが浮き彫りにされていく物語。情緒的な表現を最小限に抑えつつ、後半では逆に「どうしてみんなこれほどまでに孤独にならなくてはならないのだろう」と身も蓋もなく語らせる絶妙のバランス感覚が、人間の孤独を人工衛星に例え、他人との距離と孤独を描くという凡庸なテーマの物語に読み手を引き付けていく。

 そして、この物語はあまりにも純文学的でもあった。分かり易い物語の筋とは裏腹に、世界の分断と人格の乖離が重ね合わされ、「記号」と「象徴」、「こちら側」と「あちら側」などの表現は、あえて何も説明されないままだ。すみれの夢、ミュウが観覧車から目の当たりにしたもう一人の自分、山頂から響く生命を持ち去る音楽。唐突に展開するラストまで読み終えてみると、実はしっかりと張られた伏線に、理に落ちるほどの整合性も感じたけれど、この世界観の貫徹と手腕の高さには感嘆せずにはいられなかった。

 むしろ引っ掛かったのは、小学校教師の主人公が、万引きをした教え子に語りかける終盤の場面だ。職業の描写のリアリティーの無さに加え、オウム事件を扱った「アンダーグラウンド」を経た後で犯罪に対しての表現がこの程度のものなのかと、軽い失望を覚えた。結論を急がずに、持ちうる言葉で語りかけるのもひとつの方法には違いない。しかし、この「純文学」的表現が、僕には淋しいものにも思われたのだ。

(JUL/12/99)



松尾スズキ「第三の役たたず」 (情報センター出版局)
 インタビューという手法がどれだけ相手の本音を引き出せるかとなると、現実問題としてはかなり難しい気がする。メディアでの公開を前提としていれば多少の脚色を混ぜてしまう可能性もあるし、勢いあるいはリップサービスで心にも無いことをそれらしく語ってしまうこともあるだろう。松尾スズキによるインタビュー集「第三の役たたず」は、技術ではなくスタンスによって相手の話を引き出している印象で、自他の間抜けさを愛しつつ、ディフェンスを低くして相手に迫る姿勢が特徴的だ。

 女性編集者へのセクハラに走る庵野秀明、元看守という過去が驚きの天久聖一、「そうそうそうそう」と繰り返す根本敬、泥酔しながらそのくせ誠実な鶴見済、ズレているような気もするけれど気骨を感じさせる町田康。どいつもこいつもって感じの顔ぶれであり、困ったことに全員が大物。現在の生き様とともに、子供時代についても突っ込んで話されていて、全体としてはかなり身も蓋もないない雰囲気に包まれている。松尾スズキはなかなかの脱がし上手のようだ。

 特異なのは、挿入されるモノローグの多さ。また、脚注にまで松尾スズキならではのヒネていながら脱力を呼ぶ文章が並んでいて痛快だ。また、繰り返し触れられているので気になったのが、どうも松尾スズキは、親子の関係において親が子に恩を売ることを極端に嫌悪しているらしいということ。そんなわけで、興味の対象が松尾スズキに戻って来るインタビュー集なのでもあった。

(JUN/28/99)