Vol.22 1999



津島佑子「私」 (新潮社)
 津野祐子の「私」について語ろうとして僕が行き詰まるのは、言葉が足りないためというよりも、自分自身の幼さのせいだろう。この短編集のほとんどは、祖父・母親・息子といった肉親や、幼なじみなどの知人を失った人間の物語。いつも中心にあるのは死だ。今は亡き人への想いは取り返しのつかない悔いとして残り、「私」の意識は相手の記憶を想像し辿っていかずにはいられない。思いを巡らすことの無意味さをも知りながら。

 「癒し」という言葉が自己愛にまみれた使われ方ばかりされ、いつのまにか「卑し」を連想してしまうようになった。感動のスイッチを押されることを待ち望む人々のための、表面だけの感傷をまとったサービス精神旺盛な小説も数多く存在する。けれど津野祐子の筆致は感傷を抑えて穏やかであり、描き出きだされるのは相手の不在を感じながらも日常の中で生きていくしかない人々だ。死に直面してから数年の歳月を経て今に至る登場人物たちは、陰鬱ではないけれど生気に溢れているのでもなく、誰にも聞き取れぬ呟きのように過去に想いを馳せ、過去に縛られる自分と向かい合う。そして繊細な日常の描写が浮き彫りのするのは、噴きあげてくるような痛みだ。

 一編ごとの余韻があまりにも深くて、読み終えるまで長い時間がかかった。

(JUN/28/99)



宮台真司+松沢呉一「ポップ・カルチャー」 (毎日新聞社)
 宮台真司+松沢呉一「ポップ・カルチャー」は、この2人による対談集。といっても宮台×松沢での対談はひとつだけで、あとはそれぞれが毎回ゲストを迎えて、世間一般の文化現象について論じていくものだ。特に狭義のサブカルにこだわっているわけではないものの、中森明夫・岡田斗司夫・米沢嘉博・鶴見済など、そっち系の大物もたくさん登場するのは、連載紙が大メジャーである毎日新聞だったゆえのお約束かもしれない。

 各回はほんの6ページずつなので、かなり食い足りないものがあり、どちらかというとカタログ的に楽しむのが正解だろう。通読すると見えてくるのは、低成長で息詰まった消費社会、状況と格闘することよりも現実的な選択肢で上昇を狙う人々、メガヒットとマイナーとに二極分化する文化状況。対談の中では、堀井憲一郎×宮台による「『朋ちゃん』現象」が興味深く、自然体で男に依存して社会的に上昇しようとした華原朋美は、フェミニストにとって厄介な存在だという指摘が「言われてみれば」って感じで面白かった。

 宮台×松沢による唯一の対談は、ラストの「コミュニケーション」。これが実は風俗などの性についての対談であるのが彼ららしい。「このままでいいの?」「いいんじゃないの。っていうか、受け入れるしかないでしょ」といった雰囲気がこの本を貫いている点に、現実主義的な2人の姿勢が色濃く出ていた。

(JUN/28/99)



高見広春「バトル・ロワイアル」 (太田出版)
 自分が650ページ強の本を一気に2日で読んだのは驚きだったけれど、本を閉じてからあまりに余韻がなかったことにも驚いた。

 舞台は「大東亜共和国」、文化と経済はまんま日本だ。しかし、そこでは異常なまでの恐怖政治が行われていて、毎年全国の中学3年生のクラスから無作為に選ばれ行われるのが「プログラム」。1クラスを隔離して、最後の1人になるまで生徒同士を殺し合わせるという、設定での理由付けに苦労しそうな行事だ。海には監視艇、外せない首輪、居場所をじりじりと狭めていくシステム、しかも24時間誰も死なないと皆殺し。そんな状況下において、ある生徒は葛藤の末に、ある生徒は躊躇無く仲間を殺し、殺し合うのをやめようと呼びかけた生徒はあっさり肉塊に。澄み切った良心ほど悲惨な結末を迎えていく。

 この作品は管理教育批判とか、北朝鮮への皮肉とかいろいろ取れるそうな部分もあるけれど、たぶんどれも錯覚だろう。そんなことより作者が細かく描写しているのは、銃弾で頭が半分吹っ飛んで脳漿が飛び散るような死に様だ。他にも薬殺絞殺爆殺のオンパレード、物語のそこら中で血の池ができる。そして極限状態で生き残る道を模索する生徒たちの葛藤。ほとんど死ぬけどね。

 恋愛関係の回想とかになると、スニーカー文庫あるいはコバルト文庫あるいはX文庫のような雰囲気になるのは困った。ラストのまとまりの良さに、安堵しながらも物足りなさを感じてしまうのは、全体を読み通した後では仕方ないことかもしれない。あと、「プログラム」の実施理由は、やはり弱い気がした。

 それでも心安らぐ場面の次に肉片が舞う展開は、だらける隙を与えない。読み手の頭の中に熱を発生させてしまほどだ。ストーリーの基本は、各生徒のバッググラウンドを語り、死を目の前にしたそれぞれの姿を描いて、そして最後には死体が野晒しになるというもの。それが生徒によって様々に形を変えつつ反復される。この作品は、モラルが強い人間ほど激しく反応するのかもしれない。拒絶であれ、その逆であれ。

(MAY/24/99)



吉本隆明「詩人・評論家・作家のための言語論」 (メタローグ)
 戦後最大の思想家の言葉は易しくも難しく、それは言葉の平易さとは裏腹に、読み手の常識を越えるような仮説を平気で持ち出して話を進めてしまう迫力に、読者の僕が押し切られた結果でもあった。吉本隆明の「詩人・評論家・作家のための言語論」は、講演の文字起こしに本人が手を加えたもの。いきなり胎児には母親の感覚が分かる内コミュニケーションがあるという前提で始まる。

 乳児の頃の経験が精神の異常を引き起こすとし、そうした異常はカウンセリングで乳幼児期まで遡れば治すことができるとする論は、果たして医学的にどれほどの根拠があるのか分からないが、勢い良く「思想家」を見せ付けてくれる。こうした「言葉以前のこと」だけで、3章構成のうちの1章を丸々費やしてしまうのも特異だ。やがて言葉の自己表出と指示表出、琉球沖縄語の逆順序、詩歌の最古の形式である四七七などにも言及されていくけれど、それぞれがブツ切れのまま展開されてしまうのは残念。もっとも、古今東西にわたる数多くの引用は、それだけで豪奢ですらある。話が多岐に渡りながらも言葉の根源へと向かい、そして自己の思想を語るために突き進むこのスピード感は、軽い驚きをもたらしてくれた。

 すぐに読者の役に立つような直接的なアドバイスを示すような本ではない。しかし、印象批評や政治的立場からの批評を批判し、作品自体の正確な分析を行った上で批評家の資質や見解が表れていることを理想とする意見には重みがある。そして、百人が百回ずつ読んだら同じ評価に到達する場所があるだろうとして、主題よりも韻律・撰択・転換・喩を究極的な芸術的価値として挙げているのは、相対的評価に慣れ切っていた僕には刺激的だった。

 巨人の思考の断片を知るだけではなく、言葉というものの持つある種の得体の知れなさを認識させてくれる様々な示唆にも富んだ本。

(MAY/24/99)



高橋源一郎「あ・だ・る・と」 (主婦と生活社)
 高橋源一郎の数少ない近作は読んでいなくて、いまだに「さようなら、ギャングたち」や「虹の彼方に」といった所期作品のイメージが残っていただけに、彼の新刊「あ・だ・る・と」を読み始めた時にはわりと普通の小説の形態であることにが逆に意外だった。自分の不勉強を棚に上げて。

 このAV業界を舞台にした物語は全部で4章構成、そのうち最初の2章は現場でのエピソードで引っ張っていく印象だ。人妻や女子高生、電波な人々の性態に、常識とか羞恥心とかいうものが疑わしく思えて、「内面の葛藤」なんてものは一部の人間にしかないものなんじゃないかと思うに至る現場話。この辺は、AV業界のことを高橋源一郎も面白がって取材したんだろうなって伝わってきて、エロルポ感覚でも読める。

 ちょっと雰囲気が変わりだすのは第3章。老婆とのセックス(もちろん撮影)の話だ。相手の人間としての歴史、ひいては生死まで背負い込まされてしまった男優の葛藤。しかも勃たなくて苦しむのだが、妙に健やかなのが可笑しい。この辺の描き方がまた上手い。

 エピローグでは、反権力を志してロリコンAVなどを撮っていたものの、虚無を感じてインドに渡った男が日本に送ってきたビデオについて語られる。自然から奇形、そして娼婦へとカメラの対象は移り、繰り返される娼婦とのセックスが浮き彫りにする死と罪と穢れ。他の章とはまるで雰囲気の違う熱さで、セックスという行為自体の持つ意味にまで一気に突き進んでいく。いや、「ソドムの同窓会」というタイトルにせよこの展開にせよ、あまりに文学的過ぎるんじゃないか、俺は何か騙されてるんじゃないか? そう思いつつも引き込まれ、それまであまり効果を感じなかった太字強調も、その最後の部分はグッと来た。なんて巧みな小説なんだろうと思いつつ。

(MAY/24/99)