Vol.21 1999



だめ連編「だめ連宣言!」 (作品社)
 僕が毎日書き散らしている文章は、その多くが消費活動の記録であるとも言える。CD・本・マンガ、ライヴやイベント、いや一歩外へ出ただけでも多少の差はあれ金を使ってしまう。そんな僕にある種の憧れがを感じさせるのは、少なく働き少なく稼ぎ少なく消費するという、だめ連が提案しているライフスタイル。だめ連編「だめ連宣言!」には、自分との距離を感じさせる面もあれば、他人事とは思えない共感を感じてしまう面もあり、結論はこれだと決めつける代わりに多くの人々の生き様が示されているのが面白い。

 ここに収められた原稿の大半は、彼らの機関紙に掲載されたものの転載。はっきり言って読むに耐えない文章もあるのだが、それと裏表で生々しいほどの声も詰まっている。5章構成のうち、恋愛関係はだめ連に限ったことじゃないのであまり必要性を感じなかったが、仕事・家庭・こころ・交流に関しての部分はガンガン読み進んだ。特に、消費=幸福という観念に囚われた思考の枠組みの転換の勧めは、不況の時代を生き抜く現実的な方策として、だめ連の思想の中でも特に重要だと思われる。というか身につまされる。社会人として稼ぎながらも同時にだめ連でも活動する小倉虫太郎の文章は、僕に様々な示唆を与えてくれた。

 また彼らは、とにかく交流を重視する。この本に収められた一見だめ連とは関係なさそうな人々の原稿もその活動の成果だろう。その一方で気になって仕方ないのは、そこらじゅうに顔を出す左翼運動臭さ。そもそも機関紙のタイトルからして「にんげんかいほう」だ。だめなはずなのにコアな運動と結び付いているという矛盾。それでも彼らが興味深い存在であるのは、そんな矛盾ですら対象化して自覚的である点だ。集団の性格上、シャレではすまないほど精神的に厳しい人々も集まって来そうだし、理解者面してそのくせ自分のフィールドの広さのアピールに利用しようという魂胆で接近する人間もいるだろう。でも、彼らのいい意味での軽さがあればなんとか乗り切れそうでもあるし、楽観と思索とが入り交じった姿が、論客を含む多様な人々を集める理由でもあるのだろう。課題は、こうしたスタンスを今後も維持できるかだ。

 この本を読んでるだけじゃ駄目で、彼らと実際に会って初めて分かることも多いのだろうと思わせただけこの本は成功していると思う。で、僕はそのうち必然が彼らと結び付けてくれるだろうと勝手に楽観しているのだ。

(MAY/12/99)



槌田敦「環境保護運動はどこが間違っているのか?」 (宝島社)
 エコロジーという言葉にまとわりつく違和感というのは、例えば推進派の錦の御旗を掲げたような態度や、「エコ」の名が付くことが逆に生産者にも消費者にも免罪符を与えてるんじゃないかという疑問によるところが大きい。かくしてエコロジーが正論とは思いつつも反動勢力は生まれるわけで、この本がそうした人々に快哉を叫ばせるのは想像に難くないのだけれど、そういう事態にもまた違和感を感じてしまう内容なのだから世の中うまくいかないもんだ。

 例えば牛乳パックのリサイクルは必ずしも環境に優しくないばかりか悪影響を及ぼす場合もあり、また自然食も身体にいいとは限らない。この本で述べられているそんな内容に、エコロジーを信じて疑わずに活動してきた人ならば、アイデンティティーを見失って卒倒してしまいそうになるだろう。しかも地球の温暖化は悪いことではないとまで言い切るし、衝撃力はかなりのもの。

 しかし、現実的なデータが新聞の受け売り中心というのは心許ないし、そして最大の問題点は、筆者の理想と現実的な対応策の間にかけるべきブリッジが見あたらないということだ。物理学的な計算を論じるだけの知識が無いので即断は避けるが、「やっぱ無理じゃないの」という言葉が出そうになる。生ゴミを広い土地に放置してカラスにまかせる処理方法とか、個人所有を否定する家電製品のレンタル制などの筆者の提案は途方もないスケールで、革新的であることとトンデモは紙一重かもしれないと感じた、というのは言い過ぎか。あと、対談というかインタビュー形式は、聞き手の側が異論を口にしながらも妙に物分かりがよかったりして、ある種の演出を感じるのでやめた方がいい。

 それでも、エコロジーのお題目を唱えるだけで万事許されてしまう社会への警鐘を恐れることなく鳴らしまくった勇気は貴重。実現可能で具体な代替案をもっと示してくれるなら、続編も出して欲しいのだが。

(MAY/12/99)



笙野頼子「説教師カニバットと百人の危ない美女」 (河出書房新社)
 他者への批判というものは往々にして自分にも返ってくるものであり、それを自覚していない批判は能天気な自己憐憫や僻みと裏表だ。しかし笙野頼子という作家は、自分の立脚地を自身の手で掘り返してしまうことも辞さないほどの勇気で、自分を縛る不条理な物たちを斬りまくる。初出の「文藝」を読んだ時点で僕に半端じゃない衝撃を与えた、この強烈な破壊力を持った「説教師カニバットと百人の危ない美女」は、迷うことなく僕にとっての98年ベストの小説だ。

 ブスとしての己を語る私小説家・八百木千本は、ある日散歩に出かけて雑司が谷墓地で倒れてしまい、そこで奇怪な女の亡霊たちを見る。あれは幻かと思ったのかも束の間、悔い改めよとファックス・手紙・写真で大攻勢が始まる…。

 はっきり言って荒唐無稽、特にカニバットとその信者の歴史の辺りは無茶苦茶なのだが、それがまた抜群に面白いのだからとんでもない確信犯。その面白さの理由は、無責任な言辞を吐く人々への憤りを、フィクションの枠組を熟知し、かつ感情に流されずに表現されているからだろう。凄い芸当だと思う。

 説教師カニバットとは、女性差別主義のタカ派評論家。「右畜」というネーミングはなかなかいい。また一方ではフェミニズムへの懐疑も漂わせる。亡霊女たちは、強烈な結婚願望を抱えたまま成仏できないまま。カニバットの後継者・悪魔ドク朗は、村崎百郎がモデルなのか? ともかく、敵と見方に安直に区別ような単純な論理をことごとく破壊し、もはや自分の逃げ場すら残さない。そして笙野頼子自身も登場するものの、しかし主人公とは別人物という凝ったメタ的な手法が、さらに混沌に輪をかけてしまう。

 亡霊女たちが主人公へ贈る、蜘蛛の子のようにワサワサと溢れだす罵倒の言葉は、言葉の嫌な重みとリズム感で内容とは裏腹に快感さえ呼ぶ。鋭い感覚で言葉と言葉を組み合わせて、おぞましいほどのドライブ感だ。大文字での強調なども含め、意識的にB級を演じているが、ラストの切なさは、全てが計算の上であることを告げる。

 悪趣味にして潔癖。雑多な要素をはらんでいるのとは裏腹に、最後の静かな余韻が深い私小説。何度読んでも酔わされる。

(MAY/12/99)



赤坂真理「ヴァイブレーター」 (講談社)
 自分の内側から聞こえる様々な声を抑えることができずに苦しみ、アルコールに頼り、食べては吐き、1日に何度もコンビニへと通う。赤坂真理の「ヴァイブレーター」の主人公はそんなフリーライターで、人との擦れ合いから生まれるノイズに神経を尖らせている。そして冒頭で延々と続く不快な回想を、他人事と笑ってもいられない我が身も悲しい。おまけにこんな一節が現れたら出口を塞がれてしまう。

 憂鬱とはたとえば書き始める前の、まっさらなパソコンのディスプレイを見ること。
 それがいやであたしは他人の言葉を集めたのかもしれない。他人の話と自分の話が符合すること、自分の言葉が外にあること、世界と自分がつながっているという奇妙な全能感。
 その彼女がコンビニで出会った男に惹かれ、気持ちの赴くままに男のトラックに同乗して新潟まで行き、戻る。物語はそれだけ。そしてこの物語の持つ清々しさは、東京に戻れば全ては過ぎ去り、再び日常が戻って来ることを主人公が知っている点だ。

 表題の「ヴァイブレーター」とはつまりトラックの振動であり、それは観念の渦から身体性を引き戻す。運転手同士で交わされる違法無線の声たちが教えたのは、女の中に溢れる声が過去のトラウマによるものであること。そして、降ってくる雪もセックスも、ひとつひとつの事象は感覚に還元され、新たな意味を獲得していく。

 女が男のトラックに乗るまでの展開はやや安易な気がする。丁寧な取材が逆に虚構としての一面をチラつかせてしまう。中盤から後半にかけてタルい。けれどそんな問題も吹き飛ばしてしまうは、全てを「意味はない」と言い切ってしまうラストの開放感だ。喜びよりも怒りの比重は重く、理性を虚しくさせるほど気分は浮き沈みを繰り返す。今日の希望は明日の絶望の種かもしれない。そんな事実を受け入れた上でのこのラストには意表を突かれたし、ある日気付くと鬱が終わっていた時のような気持ち良さがあった。

(APR/26/99)



森川昇 撮影「広末涼子写真集 relax」 (ワニブックス)
 これまでに発売された3冊の写真集はどれも雑誌媒体に載った写真の寄せ集め的な要素が強かったけれど、今回は全編撮りおろし。テーマは「広末と大自然、100%ピュアなハートでリラックス」で決まりだ。勝手に。

 左右のページでカラーとモノクロ、ありは笑顔と翳のある表情を対照的に並べたり、1冊全体でストーリ性を持たせたりしている構成がこの写真集の特徴。あと、身体パーツの拡大写真も多く、フェチの皆さんも満足の仕様になっていると思われる。個人的には、それほど長くもない髪を後ろで縛っている写真が新鮮。この写真集の発売と同時期に放映されていた資生堂プラウディアのCMでの彼女は、明らかにメイク濃すぎで悪い冗談かと思ったほどだが、それと比べると「relax」がいかに素材の良さを引き出しているかが分かろうというものだ。

 あ、表紙に惹かれた人のために注意しておくと、水着写真は無し。そう、広末ファンにはいつだってストイックさが求められるのだから。

(APR/26/99)