Vol.20 1998-99



藤井誠二「暴力の学校 倒錯の街」 (雲母書房)
 ルポタージュを読む際に必要とされる前提は、それがあくまで筆者独自の視点によって書かれたものだという認識だ。どんな優れたルポであれ、最初から述べられている全てを信じる姿勢で読むのは、書き手同様に受け手が持つべきであるはずの客観的な分析を放棄しているに過ぎない。藤井誠二の「暴力の学校 倒錯の街」は、体罰やそれを生んだ管理教育ヘの批判という一貫性においては信頼に値するルポだ。

 95年7月、福岡の近畿大学附属女子高等学校の当時2年生だった生徒が教師による体罰によって殺された事件を追ったこのルポは、2つの共同体を批判している。ひとつは学校、ひとつは事件後に被害者を中傷するのデマが蔓延した地域社会だ。

 生徒指導という正義の名にもとに行われる体罰は、抵抗することが許されない一方的な暴力行為であり、それは学校という聖域によって保護されていると筆者は述べる。この事件の誘因となったのも、体罰の持つ危険性への認識の甘さであると。この事件での教師ヘの擁護論として、生徒の態度が発端となったことが指摘されるだろうが、だからといって殺されてもいいという理由にはなるはずもないのは確かだ。

 そうした点での異論はないが、体罰肯定論が根強く残る理由の分析はいまひとつしっくりこない。体罰を肯定する背景には、直接的かつ対処療法的な抑圧による即効性への期待があると思われる。そうした場当たり的な手法を捨て、非行を一時は甘んじて受け入れて、時には暴力に晒されても根強く教育して行こうという社会的なコンセンサスが出来なければ、体罰禁止への道は遠いと思われる。体罰禁止後の具体的な教育プロセスを提示できない限界を考慮した上で、体罰の是非自体は別問題であるとして論じようとするのなら不満はないのだが、説得力を加えるためにはもう一歩踏み込んで欲しかった。

 なお、この事件に関する教師の暴行は、どうみても感情に突き動かされ激昂してしまったことによるもので、訓戒的な意味を持つ「体罰」の範疇すら越えたものであることは明白。そのために被害者はコンクリートの柱に頭部を強打することになった。体罰禁止が形骸化していた学校の責任をも筆者は問う。

 そして戦慄すら覚えたのは、被害者とその遺族への誹謗中傷の激しさだ。それは近大附属の卒業生を中心として開始された、加害者である教師への減刑嘆願署名運動とともに広まっていく。不良への鬱屈した不満が身勝手に投影され、被害者と遺族たちへの想像力を決定的なまでに欠いたまま、噂は事実として伝えられてしまう。実際に署名運動の過程で噂を捏造した人物が、悪びれずに自分の正当性を主張している部分では、強い嫌悪を覚えた。そしてそれを支えたのは、教師が顧問を務めていたクラブOBの組織であり、その活動をさらに地縁によって広げていった地域社会。そうした視点から、学校と地域に共通する共同性と閉鎖性を筆者は本書で繰り返し指摘している。

 被害者の死亡を伝える校長に罵倒を浴びせる生徒がいた一方で、彼女達に「うるさい」と怒鳴る生徒もいたという。そうした生徒たちの声が紹介されていないのは残念だが、それは被害者・加害者の人間像よりも、彼らを取り巻く共同体の情況から事件を読み説くことに重点を置いた結果でもあるのだろう。

 加害者は控訴までしたものの実刑を受け、現在ではすでに出獄している。しかしその彼が、時間が経つのを待つしかないとして遺族との接点を絶っている事実は、事件をめぐる情況を見せ付けているかのようだ。

(MAR/23/99)



阿部和重「無情の世界」 (講談社)
 人を小馬鹿にしてるのかと思うほどのまわりくどさ、無駄と思えるほど詰め込まれた情報量。町田康みたいになったなぁ、とちょっと思ったのが短編3本を収録した「無情の世界」だ。「トライアングルズ」では「!」が異様に多いし、「鏖(みなごろし)」ではファミレスのメニューのカロリーまでいちいち書かれていて、「インディヴィジュアル・プロジェクション」の記憶が下手に残ってると、この変化に逆に混乱するかもしれない。

 3編とも主人公は、揃いも揃ってどうしようもない人間。「トライアングルズ」の家庭教師は理屈と行動力を兼ね備えているがゆえに困ったストーカーだし、「無情の世界」の主人公は露出狂の女を見てオナニーするために公園へ行ったがために殺人犯と疑われてしまう。「鏖(みなごろし)」の主人公は、きっと「反省」という言葉を知らない。「インディヴィジュアル・プロジェクション」の男っぽさとは、これまた違って情けない連中だ。

 それでも、物語の構造に凝る阿部和重らしく、「トライアングルズ」では最後になって語り手が誰なのか突然はっきりしなくなったり、「無情の世界」のラストでは物語が意外な形で語られていることが示されたりする。最後の最後になって、物語を突き放すかのような構成だ。ただ、「トライアングルズ」と「無情の世界」の2編を読んだ時点では、そうした構造上の工夫が鼻について、「インディヴィジュアル・プロジェクション」でのテンションの高さはもう無いのかと不安になったのも事実だった。

 しかしそんな気分を拭い去ったのが「鏖(みなごろし)」。冒頭から滑り込むようにして物語に引き込んでいく手腕には、まんまと乗せられてしまった。後半、店に流れる美しいBGMと殺人の修羅場が交錯する場面はこの作品のハイライトだ。途中、落ちが見えそうにしておいて、肩透かしを食らわすのも心憎い。  ここに収められた作品群の狙いは必ずしも功を奏していない部分もあるけれど、ひとつのスタイルにとどまる気配も見せずに模索しつづける阿部和重の姿勢は支持したい。と言うか、好きだ。

 常磐響による、ビキニギャルズ@ワイルドブルー横浜な装丁も、関係無いようで作品のムードと通じてるのが面白い。帯の後側に英語しかないのも人を食ってるし。

(FEB/23/99)



笙野頼子「東京妖怪浮遊」 (岩波書店)
 他者への愛情を表現しようと思うと偏愛を露呈するだけになりがちであり、悪意を表現しようとすると単なる稚拙な罵倒になってしまいがちだ。しかし、その両方を表現することにおいて笙野頼子は卓越した力量を示す。一言でいえば面白い。そして、自意識を過剰に溢れさせているようで、実は見事にコントロールしている点にも感嘆させられる。

 「東京妖怪浮遊」に収められている「東京すらりんぴょん」と連作「東京妖怪浮遊」は、ともに東京で一人暮らしをしている四十代の女が主人公。都会の人混みに紛れて猫と気ままに暮らすことを願う彼女は、「東京妖怪浮遊」では「ヨソメ」という妖怪として登場する。自分と猫と住居と街と編集者。そんな作家の日常が、現実と幻想の切れ目を曖昧にして描かれる私小説だ。「タイムスリップ・コンビナート」を読んだ時にも感じたことだが、その境界線はなめらかで判然とせず、だからこそラディカルでもある。他人との軋轢を音が鳴るほどの筆致で描きながらも、どこか漂う倦怠感。私はただ静かに暮らしたい。物語の世界は湿り気が多く、潤みながら虚ろな印象だ。独特の湿度と体温が物語を包む。

 「東京妖怪浮遊」の最初では、主人公や超能力を持った飼い猫、相手によって態度を変える粘着質の編集者などの実在の人間・動物が妖怪として描かれるけれど、やがて本当の妖怪としか思えないような存在も現われ、最後には都市そのものが妖怪となる。この展開もまた、緻密な計算の中に吸い込まれていく気持ち良さを与えてくれた。

(FEB/23/99)



町田康「屈辱ポンチ」 (文藝春秋)
 町田康の文章ってスルスル読めてしまうんだけど、これだけ滑らかに言葉が流れ込んでくるってには尋常じゃない。だいたい、1ページ以上も全く句点がなかったりするのに、独特の言葉使いが生むリズムは途切れることが無いんだから。巧すぎて、その技術に気がつきにくいほどだ。

 「屈辱ポンチ」に収められた2作は、行きあたりばったりのだらけた主人公が、なんだか胡散臭い人間からのオファーに乗っかったがために、正気とは思えない素敵な人々とのハートウォーミングな出会いに導かれて、どんどん妙な状況に追い込まれていく展開が共通してる。

 表題作では友人から復讐を請け負い、「けものがれ、俺らの猿と」では映画脚本執筆のため取材をする、はずなのだが。困った人間がひとりでは済まずに束でかかってきて、そして織り成す因果の糸。主人公は無益に理屈をこねくりまわすが、結局は周囲に流されるだけ。人の馬鹿さや情けなさを、高みから見下ろすことなく描き出す。脱いだままのくたびれた靴下のようなダメ感は、みすぼらしくも何かを語るところがあるけれど、それを声高にいうこともない。実は控えめな語り口だ。

(JAN/08/99)



柳美里「ゴールドラッシュ」 (新潮社)
 僕はこの作品に対して、出版社の宣伝に乗って過剰な期待をしていたと思う。いや、決してこの作品が良くなかったというわけではない。ただ、「仮面の国」で彼女が展開したような過激な社会時評と、本作のような小説との表現の差異について、作品の趣旨とはやや外れた部分で考えさせられもしたという個人的な問題だ。

 主人公の少年は14歳。学校には行かない。キレやすい。誰もが想像するのは酒鬼薔薇だが、家庭環境はもっと特殊な設定だ。粗暴な父親はパチンコ店を経営しているために金銭的には極めて裕福、しかし母親は宗教にハマって別居中。ウィリアムズ病の兄に援助交際をする姉という設定には、桜井亜美の「イノセントワールド」を連想し、かつドラマツルギーを盛り込み過ぎではないかと多少鼻白んだことも記しておこう。

 父親を殺した少年は、自分が父の代わりに店を経営して、家族を守ろうという現実離れした計画を実行しようとする。それは当然のごとく頓挫することになり、そして彼が罪の意識に目覚めるまでが、たたみかけるような展開と、汚濁の中で一切の甘さを拒絶するような筆致で描かれる。人間のネガティヴな感情を執拗なまでにすくいとってみせる手腕は、さらに凄味を増した。

 本作において重要な問題のひとつは、親殺し自体ではなく、「なぜ子供は人を殺してはいけないのか」ということだ。少年に慕われる街のやくざ者・金本は、少年の殺人に感づいてこう吐露する。

おれは怖いんだよ、いったいどうなってんだ、こんな歳になってなんのために生きてんのかわかんなくなるなんて、冗談じゃねぇってんだ。
 これは、柳美里にこの作品を書かせた理由でもあるのであろうか。また、次のようなくだりも現れる。
この社会の網の目は通念と利害でしっかりと結ばれ、それ以外の要因で引き起こされた出来事は網にはかからないのだ。実は子どもこそ通念と利害に異常なほど敏感だということにおとなたちは気づいていない。
 金本から拒絶された少年は、響子という少女に頼ろうとし、彼女をも失いそうになった時に罪の意識に目覚める。それは関係性の復活によってもたらされたものだ。ラストでは、彼は幻想の中で世界と自分の存在を確認する。用意された結論は目新しいものではないし、肝心の終盤で結論を急ぎ過ぎた感もある。しかし、「仮面の王国」のように無謀なまでの勢いを持って迫ってこそ来ないが、より深い思慮の元にこうした小説が生み出されたことの方に僕は魅力を感じる。だからこそ、読み終えた際にこの本を閉じる手は重かった。
(JAN/08/99)