Vol.19 1998



リリー・フランキー「美女と野球」 (河出書房新社)

 リリー(こう呼ぶと友達みたいだな)が自身について語った「なんだかわからない低温のドラマに巻き込まれてしまいやすい体質」という前書きの言葉は、このエッセイ集の性格そのもので、彼の描く人々や出来事も、一見とてもぬるーい印象を与える。そして、そこがクセモノなわけだ。

 類は友を呼ぶせいか、彼は業の深い人を集めやすいタチであると同時に、さらに困ったことに自分から飛び込んでしまう趣味もある。普通の感覚から脱線した人々が多く登場するのでそれだけでも楽しめるんだけど、やはり彼の語り口の巧さったらない。しかも、彼はひとつの文章の展開させていく際に、結論のようなものを大上段にブチ上げことを回避する。その代わり、目の前の女性の口元のヒゲばかり見るような、変な視点がだらしなく光る。絶妙の力加減で文章を引っ張っていき、抜けきったようでありながら目は相手から離さない。

 と思うと、「ゴムとエイズとベトナム美人」や「アミーゴたちと走った日々」で差別について鋭く考察して見せたりもする。親戚との旅行話「ハワイのオカン」では、笑わせる比喩の乱れ撃ちだ。そしてタイトルそのまんまの内容の「オカンがガンになった」なんて、ディープな話のはずなのに、語りのトーンはいつもと同じ。最後の東京タワーのくだりなんて、浅田次郎なら泣かせまくろうとするところなのに、リリーはさりげなく締める。そして、押しと引きのバランス感覚こそ彼の文章の魅力だと気付かされというわけだ。

(DEC/07/98)



鈴木博文「ああ詞心、その綴り方」 (ソフトバンク)
 「詞」と「詩」の違いは何かと考え出すとなかなか答は出そうにないが、鈴木博文は「ああ詞心、その綴り方」で、ほとんど区別せずに語るという姿勢をとっている。これって勇断じゃないだろうか。新旧の歌詞40編について綴ったこの本は、いわば詩人による詩の読解書だ。

 その文章は、批評にしては私的な部分の度合が高く、感想にしては分析的。それが本書の魅力でもある。自身の日常やその詩との出会いを語りながら、客観と主観・ストーリーとリアリティー・語感・言葉の訳詞的魅力・リズムなど様々な視点から理知的に分析しており、そこにまた詩的な表現が使われているのが彼らしい。

 鈴木博文の心に引っ掛かって取り上げられた詞は、難解なものや高度の技巧が用いられて作品はもちろん、平易なもの、あるいは稚拙と思えるものにまで及ぶ。そのひとつひとつに彼は様々な価値を見出し、薄味に思える詞もその制作意図を推し量る。奥田民生に対しての評価が高い一方、「今夜はブギー・バック」は冷めた視線を向けているのが面白い。こうやって改めて読むと、曽我部恵一の詞はいいとか、青山陽一の詞はもっと高く評価されてしかるべきだとか、いろいろと気付かされるわけだ。

 さて、この本を通読すると、朝に眠り昼に起き、娘に悪態をつかれながら一緒に暮らしている、鈴木博文の日常をいつのまにか知ることにもなる。そう、彼は何を語っても彼でありつづけるのだ。もちろん良い意味で。

(DEC/07/98)



小野島大監修「NU SENSATION」 (ミュージック・マガジン)
 足を踏み入れると因業の泥沼にはまってしばらく帰ってこれそうもないので、多くの人がいまひとつのめりこむことのない音楽。いや、この小野島大監修「NU SENSATION」で取り上げられるオルタナティヴなんてものは、ほとんどの人が存在すら知らないアーティストが圧倒的か。

 小野島大が「MUSIC MAGAZINE」で日本のロックのレヴューを担当していた頃は、ロック至上主義的な物言いに辟易することも多かったんだけど、こういう形で結実してみると悪くない。とういうか、けっこう勉強になった。「主流から離れた独自の価値観を貫くロック」を紹介する、非常に暑苦しいガイド本だ。個人的には最後の「ロック」が邪魔な気もするんだけど、それじゃ際限がなくなるか。

 入手可能かどうかをほとんど考慮しなかったであろうセレクションは、逆に清々しい。僕がリアルタイムで体験している80年代以降に限っても、そんなに音楽的に面白いかなぁというアーティストも結構いるんだけど、これだけガバガバと突っ込んでることの方を評価した方がいいかもしれない。400枚もアルバムを紹介するうちに、一体なにがオルタナティヴなのか分からなくなってくるけれど、それはこの手のガイドの宿命でもあるし。じゃかたらや、ボアダムス&山本精一の記事は素直に嬉しかった。

(DEC/07/98)



クーロン黒沢「怪しいアジアの怪しい人々」 (KKベストセラーズ)
 以前インドネシアに行った時、現地の連中が何かにつけて金を巻き取ろうとするんでゲンナリした記憶があるんだけど、経済格差の問題もあるんだからあんまりそれを日本で広言するのも良くないかなぁ、なんてつい妙な気を遣ったりしてしまう。ところがそんな偽善精神とは無関係に、エナジー溢れ過ぎのアジアの庶民の生態を、ヒューマニティーなんて言葉と無縁に描写するのがクーロン黒沢だ。

 この書き下ろし文庫に収められているのは、そんなアジアの猥雑さの中に飛び込み、そして撃沈していった日本人たちの武勇伝。自分から逃げた少女を求めてカンボジア〜ベトナムを探し回る男、騙したネパール人を誘拐したりネットにポルノ流したりで海外の豚箱に送られた男たち、ネジが外れた貧乏旅行者を相手に店を経営して夢破れた男…。カンボジア・ベトナム・タイ・香港・北朝鮮と、ところ変われど人間の業の深さは変わらないという実例が目白押しだ。

 東南アジアの異様に高い湿度、何とも言えない街の臭気。そうしたものに波長が合ってしまったがゆえに落ちていった日本人たちのシャレにならない姿を、絶妙の表現で茶化しながら描くのがクーロン黒沢の真骨頂だ。そう、容赦が無いんだよ、この人。しかも善悪なんて飛び越えて語ってるんで、それも気持ちいい。そして、こういう文章ってのは人間への深ーい愛情がなけりゃ書けないはずなんだが、クーロン黒沢はそんなベタッとしたものをチラリとも見せない。これも彼の芸なのだ。

(DEC/07/98)



宮崎哲弥「身捨つるほどの祖国はありや」 (文藝春秋)
 どちらかと言うと右寄りとか左寄りということはあっても、はっきりとどちらに傾いているということは、僕等の世代にはあまり無い気がする。まぁ、そもそも政治的な問題を気にする連中自体が圧倒的少数なんだけど。で、多くの場合、語る側の人間たちは内面の空虚さを露呈する危険性に無自覚なまま、安直にイデオロギーに依存してしまうというわけだ。それに対して、宮崎哲弥の時事評論集「身捨つるほどの祖国はありや」は、「共同体」の必要を中心に据えて、左右の極と関係なく分析している点が新鮮だ。

 戦後民主主義の欺瞞を指摘すると同時に、公共性の定立を唱えてナショナリストに堕した保守への批判も同じに繰り出す。自由主義史観についても、藤岡信勝への疑問を提示し、国史は機能的結社体の必要条件ではないとして、小さなローカルで多元的な共同体で語られる稗史こそが重要だとする。また、アメリカの例を挙げながら個人主義についても疑問を投げかけ、「主体」である「私」は社会によって塑形されるのだから、中絶や安楽死も自己決定権が与えられる問題ではないともしている。どんなイデオロギーにも危うさ、いぶかしさといったものは内在しており、それを認識した上で、共同体の重要性を説くのが彼の基本姿勢だ。「共同体」の連発に辟易する部分もあるが、この一貫性はなかなかに清々しい。分析手法や推論過程から、宮台真司をリアリスティックな最新型の保守と定義するなんてのも、そうそう出来ることじゃないだろう。

 一方、筆者の考える「共同体」の性質が、この本からは明確に読み取れないという難点もある。登校拒否児だったという彼は、どこか不良の匂いもするし、どこからこんな思想へ至ったのかは非常に気になる。いっぱしのオタクでもあるはずの彼がエヴァと酒鬼薔薇を並べてしまうなど、勇み足としか思えない部分もあるが、それでも、高い知性と痛快さを感じさせ、一見反動的に見える点では呉智英と共通項を持ちながら、呉よりも現実的な対応策を提示している点も評価したい。彼の提言がどんな有効性を獲得していくのかも気になるところだ。

 本書の中ではやや異色であるリポート「『船井幸雄印』ニューエイジ本の英雄たち」は、関係者への直接取材もあって、非常に興味深い。

(DEC/07/98)