Vol.18 1998



中原昌也「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」 (河出書房新社)

ブラスバンドを加えての歌合戦。それは何ものにも代え難い程の本物の楽しさだろう。
 中原昌也の「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」は、「路傍の墓石」のこんな素晴らしい書き出しで始まるのだが、最後は、主人公が喫茶店で馬の絵を見ながら勃起する場面で終わる。東武伊勢崎線に乗ったらリオデジャネイロに到着してしまったかのような予期せぬ結末だ。物語を埋め尽くすのは、予測不可能に拡散していく思考と、落ちて行くだけのジェットコースターのようなむやみなスピード感。「起承転結」という基本はさて置き、「起承転逃」や「起起起起」といった構成にも果敢に挑戦する。美しくまとまる「物語終了ののち、全員病死」も、中年女性マリとプードル犬フィフィのフリーライター・チームの描写に大爆笑だ。

 矢継ぎ早に繰り出される、足を滑らした悪夢のような物語は、悪意・憎悪・嫌悪と、悪だらけの要素に満ちて、時折顔を覗かせる品の良さや優しさは、全部悪を引き立てるための罠。出来立てほやほやのクレープに、タバスコや味噌や下痢便をドバドバぶっかけ、自分が食うと見せかけて相手の口の中に突っ込む男、それが中原昌也だ。無理な継ぎはぎだらけの展開に見えるが、この違和感が生み出す気持ちよさは格別。そうか、暴力温泉芸者のサンプリングは文学だったのか。でも何なんだよ、「ジェネレーション・オブ・マイアミ・サウンドマシーン」ってタイトルは!

 本書がもたらすのは、純真だった子供の頃、自動車工場の廃部品の山に登った時のような興奮だ。それは、ブラスバンドを加えての歌合戦にも代え難い程の本物の楽しさだろう。

(NOV/02/98)



花村萬月「ゲルマニウムの夜」 (文藝春秋)
 聖と俗の関係は文学の主要なテーマの一つだが、花村萬月の「ゲルマニウムの夜」もそうしたテーマに正面から挑んだ作品だ。主人公・朧は、2人を殺して逃亡し、かつて自分が育った修道院へ舞い戻る。そこは世間の聖なるイメージからかけ離れた世界であり、院長の性器に手で奉仕することと引き換えに、朧は修道院の農場で働くことになる。そしてアスピラントや修道女と姦淫し、気に触る相手の口の中に石を詰めて殴り、美少年に口に性器を委ねる。動物たちの糞や死体、人間の垢、そんな悪臭が漂う中で、宗教への冒涜が繰り返される。

 この物語が、神の存在を疑うだけの凡庸な作品で終わらないのは、朧がインモラルでありながら同時にモラルから逃れられない人間であるという点に尽きる。彼は気付く、自我無き反復という点において、セックスと宗教的祈りは同一の快感をもたらし、それがキリスト教で性が忌避される理由であると。上っ面の良識と科学に唾を吐き、神の無力と宗教の大雑把さを説いて神父を挑発する時も、実は殺人者である自分に罰を与えない神の無力さに苛立っている。噴き出す暴力は神への嫌悪の表れだが、それは自分が足掻いていることの証明でもある。言葉への盲信を捨てられず、身体に染み込んだ倫理や道徳を剥すことはできない。神父は臨終間際に、朧が一番神に近いと言い遺し、朧はそれを復讐だと感じる。

 正邪を併せ持つ朧の魅力は、修道院という閉鎖された共同体の中へ次第に浸透していく。この単行本に収められた連作3編は、これから書き継がれる「王国記」という長大な物語の一部だという。昂揚と冷徹さを内包し、圧倒的な熱を感じさせるこの作品の続編を待ちたい。

(NOV/02/98)



高沢皓司「宿命 『よど号』亡命者たちの秘密工作」 (新潮社)
 浅間山荘事件の年に生まれた僕にとっては、よど号事件は学生運動の時代に起きた事件の一つというイメージしかなかった。極めて漠然とした認識だったが、それだけに本書が僕に与えた衝撃は大きい。北朝鮮と何の連絡もとらずに行った無謀なハイジャック、日本人妻の渡航、日本人革命村での優雅な暮らし、軍事・海外工作教育、政治的取り込みのための反核運動、日本潜入、パフォーマンスとしての帰国問題。どこまでが完全な真実なのか、僕には検証する術が無い。けれど、日本の日常からかけ離れた話の数々に、一種異様な興奮をもって読み進むことになった。

 時として人間は、無理に理由付けをして自身の意思を曲げ、自我を維持しようとすることがある。それは適応能力だと言ってもよいだろう。例えばよど号事件の際、四日三晩に及んで旅客機内で監禁された乗客たちは、解放を告げられると、犯人たちと歌を贈り合って和やかな交歓をし、解放時には励ましの言葉を贈った者もいるという。また、よど号事件メンバーたちの日本人妻には、自分たちが結婚させられることを知らないままに連れて行かれた者もいたが、彼女たちは「チュチェ思想との結婚」「父なる首領様の花嫁」という「合理的な」理由付けの元に自身を納得させたと思われる。人間は環境に適応するためならば、思いがけない思考の転換が可能らしい。

 そして、よど号ハイジャック犯たちは、後にヨーロッパで日本人拉致活動を繰り返すという、あまりにも卑劣な行動へと行き着く。堅持するはずだった「過渡期世界論」の欠陥に気付き、存在理由を見失った彼らは、北朝鮮労働党への「革命的義理」もあって、自己批判・相互批判を繰り返しながら、見事にチュチェ思想に染まっていく。運命を決定するのは自分自身であるとされても結局は「首領様の御意志」で動き、正義と革命のためなら何でも許されるという思考パターンが定着する。彼らの言葉は事実とは関係無く、真実がそうあるべきだという内容を語っているに過ぎない。北朝鮮に連れ去られたと考えられる人々の足取りを追ったレポートも詳細に描かれいて、騙しと巧妙なアリバイ工作の数々には、「これは一体何なのだ」と吐き捨てたくなる。ハイジャック犯たちの「崇高な」理念の末路は、あまりに皮肉な「適応」だった。

 500ページ以上に及ぶルポタージュだが、この数奇な物語の前には決して多いページ数ではないだろう。現在と過去が交錯する構成がとられ、よど号犯たちが思想的に大きく転換していく過程を浮き彫りにする。力作だ。小説のような形式で再現されている部分については脚色もあるだろうが、それを差し引いても読み応えは変わらない。

 85年に死んだとされる吉田金太郎は、実はもっと早い段階で消息が絶たれていた。他のメンバーと思想面で対立した岡本武とその妻も、原因のはっきりとしない死を迎えている。そしてリーダーであった田宮高麿の死さえも不可解だ。田中義三・柴田泰弘が北朝鮮国外で逮捕され、ハイジャック犯9人のうち、現在もピョンヤンにいるのは、小西隆裕・赤木志郎・若林盛亮・阿部公博の4人を残すのみ。自分が生きるのと同じ時代に、現在もこうした数奇な境遇に置かれた人々がいる。1970年の春にハイジャック事件を起こした彼らは、同じ年の秋には帰国する気でいたらしい。「宿命」という本書の題名が、一層重く感じられる事実だ。

(NOV/02/98)



室井佑月「熱帯植物園」 (新潮社)
 最近メディア露出が多い作家なので、イメージ先行型で中身の追いつかない作家なんじゃないかと警戒していたんだが、5編の短編を収録した初単行本を実際に読んでみたところ、それは全くの予想外れだった。

 「熱帯植物園」の最初の5ページを読んだだけで上手いと思わされた。文章のリズム、形容の多彩さ、そして導入の巧みさ。彼女の文章はかなりかっこいい。16歳の由美は、父親の愛人で自分と同じ名を持つ由美に出会う。愛人の由美は、娼婦で放火魔で興奮すると発作を起こすけれど、2人は親しい関係になっていく。由美は大きく感情を揺らすことをしない。恋人も友達もいるけれど、誰とも親しげで、誰とも距離を置いている。ただ、テレクラで知り合った男にレイプされた時には、母親や恋人、友人たちのことを考え、愛人の由美が死んだ時には、「由美が好きでした」と語る。次第に他者との関係性を自覚していき、「大人は嘘吐きだ」と認識するようになるけれど、ラストで自分も大人の女となったために、再びすべてを見失い、淋しさの中に立ちすくむことになる。カタルシスからはほど遠い終わり方だ。多くの要素を詰め込んだ分、予定調和的になった部分や処理しきれていない部分があるのは惜しい。けれど、情感過多とは無縁な乾いた表現が深い余韻を残す。

 「砂漏」は抽象的なラストが後を引く。「屋上からずっと」は、安定感という点ではこの短編集の中で最も良くできているかもしれない。「清楚な午後三時」も、短いながら心理の描き方が鮮やかだ。

 登場する主人公は女の子ばかり。彼女たちにとって、セックスが欲望を満たすものであることはむしろ少なくて、ある種の道具に過ぎないことが多い。そして、誰もが孤独を抱えているのに、それを自覚することすら難しい。デビュー作「クレセント」でも、主人公の女子高生は、淋しさを紛らわすためアル中になっていた。そうした意味で、「クレセント」から「熱帯植物園」まで、たぶん室井作品のテーマは変わっていない。ただ、湿気を含んだ情感を排除したトーンで世界を深めていこうとしているのだろう。セックス絡みのイメージで紹介されることが多いけれど、そうしたものが室井佑月という作家の本質だと考えるのは大間違いだと思う。

(NOV/02/98)



車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」 (文藝春秋)
 主人公の生島は、大学を出て会社勤めをしていたものの、自分の命を削っているだけではないかとの思いに囚われて仕事を辞し、職を転々としながら流浪する。そして流れ着いた尼ヶ崎で訪ねたのは、知人に紹介された焼き鳥屋だった。仕事は、日の当らない部屋で、病気で死んだ豚や牛の肉を串に刺す作業。周囲にいるのは、焼き鳥屋の女主人で元娼婦のセイ子、彫り物師の彫眉、その女で朝鮮人のアヤといった、それぞれに業を背負った人々だ。そんな泥の上を這い回るような暮らしの中で、生島は覚醒剤密売の集金や拳銃の受け渡しまでやらされ、いつしか自分が異分子として常に周囲の目に晒されていることに気付く。そしてアヤが突然生島に抱かれに来たことにより、事態はゆっくりと心中の旅へと向かっていく。

 物語の最初から最後まで、生島は常に周囲に対して受け身でいるだけだ。自分の意志とは関係なく押し流され、兄の借金のために売られることになったアヤに一緒に心中してくれと頼まれても、深い思いもなく言われるがままに了解する。セイ子をはじめ、他人との間の好意はどれ一つとして実ることがない。彼が強く感じるのは、自分が同じ場所に長くは居られないという思いだけだ。

 生きることの現実感を取り戻すまでの、汗を流し続ける真夏の物語ともいえるかもしれない。文章の言い回しのあまりに独特な堅さは、生島の不器用な生き様をこれでもかと浮き立たせる。深い感傷もないまま、割り切れない思いだけを残して物語は終わっていく。

 愚図で無能で、常に自分の居場所を疑い続けている生島。彼は語るべき物語のない自分の人生を恥じる。僕が置かれている境遇とは遠く離れた物語なのに、かくも響いてくるのはなぜだろうか。

(NOV/02/98)