Vol.17 1998



鶴見済「檻のなかのダンス」 (太田出版)
 「人格改造マニュアル」以来2年ぶり、覚醒剤所持による逮捕を経ての新刊。本書は、近代が生み出した目に見えない檻の中から自由を取り戻すためのものだと鶴見は述べる。その檻は、思考重視の近代哲学や、生産と競争を至上命題とする資本主義によって生み出されたものだ。しかし、これ以上の発展の望めない社会においては、檻の中に縛られることよりも、今現在を楽しむことが重要だと彼は考える。そのための武器が意味のないダンスであり、そこには全否定と裏表の全肯定の気分がある。成熟社会におけるまったりとした生き方については宮台真司も同様の指摘をしていたが、同時に宮台はそうした社会への違和感も告白していた。しかし鶴見済はすでに全肯定していて、より具体的な適応法を探っている。なにしろ「近代最高!!」とまで言っているのだから。

 第1章「監獄社会の仕掛け」は、そうした本書のメインともいえる。逮捕・拘留時の生活を記した「監獄完全マニュアル」では、逮捕・留置場・取り調べの場で目にした役所仕事の無意味さを徹底的にあげつらう。執行猶予中にこれだけ挑発的な態度をとれるのもすごいもんだ。そして学校や社会生活と監獄との近似性を指摘し、そこには人間の標準化を目指す「ドリル」が潜んでいるとする。それは誰もが無意識に受け入れているシステムだ。ここでの鶴見は、文体こそいつものようにクールだが、明らかに怒りに突き動かされてる。まるで報復戦のような趣きだ。

 その第1章を受け、そうしたシステムに対抗できる反近代性を持つものとしてダンスを取り上げているのが、第2章「ダンスという暴動」だ。ロンドン・アムステルダム・ベルリンなどでの旅行記が中心。近年のレイヴの世界的流行は、他人に見せるという要素のない、快楽原則に忠実な行動だ。何の主義主張を掲げることもないレイヴは、無意味さや機械的反復への愛着を生むとしている。

 第3章「脳のダメージと治療」は「人格改造マニュアル」の続編みたいなもので、強迫神経症・過食症・薬物依存などの症例紹介がある。しかも、「青少年のための覚醒剤入門」なんてものまで書き下ろし、現在の覚醒剤に対しての一般的な認識は、国による情報操作の結果だとする。戦後のめまぐるしい法改正の矛盾を取り上げ、覚醒剤の害もアルコールと同じようなもので要は摂り方の問題だと言い切っている。常識に真っ向からタテつくのも、鶴見済の真骨頂だ。そして、日常では味わえないほどの多幸感をドラッグがもたらすなら、この日常における生活は何の意味があるのかと問い掛ける。

 オウムや阪神大震災への無関心さ、中学生のいじめ自殺について言及した第4章「檻(コップ)の中の嵐」も面白いことは面白いが、全体のトータリティーという点では蛇足の感があった。

 岡田斗司夫の対談集「マジメな話」では、いい加減な人間を演出するため、原稿チェックの段階で手を入れたようだ。「人格改造マニュアル」では、自身が精神障害を患っていることをカミングアウトしていたけれど、いつも彼には自分の本音を隠して自己演出をしている雰囲気があった。それに比べると、この「檻のなかのダンス」では、自己の思想をこれまでになく明確に語っている。これは大きな変化だ。

 ただ、今までは恥ずかしいほど激しいシンパシーを感じながら彼の著書を読んでいた自分が、思いのほか醒めた意識で読んでいることにも気付いた。ひょっとすると、これは自分が社会の中で毎日をやり過ごす術を身につけたからかもしれない。つまらないことは極力シカトして、好きなことに優先的にエネルギーを注げばいい。それはいわば檻の中でいかに楽に生きるかというテクニックであるのだが、それに対して今の鶴見が目指しているのは、檻のシステム自体の嘘を暴くことだという違いがあるのかもしれない。

 「正しいことが通らない」「努力しても報われない」と語る鶴見は、一見すると単にいじけているようにも見える。しかし、「生きるなんてくだらない」と「完全自殺マニュアル」で言い切り、かったるい社会を生きるための処方箋を提示するという従来の路線に対して、本書ではより社会との対決姿勢を強めている。正面切って喧嘩を売っているのだ。その意味で、鶴見は確実に深い部分へと歩みを進めている。自分が損をせず、なるべく苦しまない生き方を求める…というと気弱のようだが、同時に彼は「自由の追求」という言葉もはっきりと口にした。彼の発言は、どこまでが自己演出でどこまでが本気なのか見えにくい。けれど、「自由」のためにゲリラ戦を続ける彼の行き着く先を見てみたいと改めて思わされた。

 装丁と本文レイアウトでの、鈴木成一の丁寧かつ新鮮な仕事ぶりも素晴らしい。彼は鶴見済と組むと、俄然実力を発揮する。

(OCT/05/98)