Vol.16 1998



藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」 (河出書房新社)
 収められている表題作と「屋上」に共通しているのは、敷かれた線路から外れながら、しかし外れきることが出来ない男たちの姿だ。彼らは、東京の広告代理店を離れて温泉宿で働いていたり、レジャー産業会社から街のストアの屋上へ派遣されていたりする。そして同じような日々の繰り返しが浮かび上がらせるのは、見えない束縛の中での静かな苛立ちだ。

 「ブエノスアイレス午前零時」の主人公カザマは、ダンスホールがある旅館で働いている。宿自体にもダンスをしに来る客にも強烈な嫌悪感を持っているが、それを押し殺して働くのみの日々。そこへ来たダンス客の一行のミツコは、自覚はあるもののボケが進み、今が何時で、自分がどこにいるかも曖昧な中で過ごしている老婆だ。今も身を飾る彼女は、噂によれば昔は娼婦だったらしい。そしてカザマは、時間と空間の歪みの中にあえて飛び込むかのように、ミツコにダンスを申し込み、彼女と踊りながら時間と空間を心の中で飛び越える。

 「屋上」でも、主人公は毎日同じ仕事を繰り返す。ストアの屋上でゲーム機や乗り物を管理し、仕事が終わればそこで運動をして帰る。その彼が気になるのは、ペットショップの一日中じっと動かないポニーだ。屋上にただ1匹だけ本物のポニーがいる奇妙な光景。そしてある日、反射光を浴びるポニーに神秘的な感覚を味わい、彼は次の日、穏やかながらも日常を揺らす行為を試みる。

 2作品とも、自分とは別の世界にいるかのような他者への、ある種の「恋」の物語だと思う。

(OCT/05/98)



鈴木博文「湾岸」 (三一書房)
 ミュージシャンとしての彼も素晴らしいけれど、僕は文筆家としての彼も大好きだ。94年に発売されたエッセイ集「ひとりでは、誰も愛せない」も、少し硬質な文体、無理のないユーモア、ちょっと自分を突き放しているような乾いた語り口が、いい具合に年数を経て色に深みを増した木材のように香り立っていた。あの本を読んだ時は、我が身の文才の無さを呪ったものだ。

 この「湾岸」は、自身で撮った写真と文章から成っている。文章の長さは数行から数ページと幅があって、それは詩のようでもあり、エッセイのようでもあり、小説のようでもある。たぶん、詩集でもあれば、エッセイでもあり、小説でもあるのだろう。

 写真には人が写っていることが極端に少ない。午後の陽射し、道路の排気ガス、飛行機の音、街の賑わい、東京湾の潮の臭い、揺れる草むら、建築現場からの騒音。そんなものが、写真という切り取られた一瞬の中から浮き上がってくる。

 小説の少し不思議な物語に登場する人々は、街の中にいながら街にいないかのようなアウトサイダーたちだ。世間の慌ただしさから離れ、街の忘れ去られた部分への愛着を隠さない。孤独が柔らかに滲む、路上の言葉が詰まった本だと思う。

(OCT/05/98)



村上龍「ライン」 (幻冬社)
 最初の数話を読んだところで困惑してしまった。主人公は、その人が会ったり話したりした相手にに次々とバトンタッチしてしまう。一話ごとに主人公が入れ替わっていくという構成のために、各話が消化不良のまま終わってしまい、最後までこの調子で進んでしまうのではないかと思ったからだ。

 しかし村上龍も、さすがにそんなヘマは犯さなかった。離婚調停中の普通の男から始まって、SM嬢、通り魔、殺人犯、妄想狂と、次第に救いようの無い闇を抱えた人間たちへとつながっていく。時間にすれば、夜の始まりから翌朝にかけての、ほんの一晩の物語だ。各話のパターンは決まっていて、途中で主人公が過去に親から受けたトラウマが語られる。親は自己にとっての最初の他者であり、社会における他者との関係性を決定するものだと語っているかのようだが、それではずいぶんと凡庸な結論の気もする。凄惨な暴力描写もあって、情念が腐敗したかのような退廃は相変わらずだ。どいつもこいつも病理が重過ぎて、逆に嘘臭かったりもするのが難点だが。

 そしてこの物語の世界に時々現れるのが、ユウコという存在だ。彼女は、電話やテレビのラインの中を流れる電気信号が見えたり聞こえたりする。でもそれは別に何の役にも立ってなくて、結果的に彼女が社会から排除される理由になってしまった。ユウコは寂しさというものを知らない。社会の枠から外れたような他の連中も、実際には多くの人間と関わりを持っているのに比べ、彼女の感覚の中には他人という概念自体が無い。つまり他人という信号から切り離された存在だ。それは、日本の共同体における作者の考える個人の未来像なのだろうか。別に何の解決も救済ももたらさない作品だけど、一見しただけでは気付かないような複雑な歪みを持った社会で我々が生きていることは感じさせる。

(OCT/05/98)



Die Gestalten「Flyer Mania」 (Fun Factory)
 ドイツの出版社から発売された、オールカラーのフライヤー・デザイン集。フライヤーとは、つまりチラシのこと。デザインというと、CDジャケット・Webデザイン・雑誌レイアウトなどを意識的に見ることが多いが、クラブなどのイベントのフライヤーもデザインの先端を走る場のひとつだ。「Flyer Mania」は、そうしたデザインを世界各国から集めて編集したもの。

 デザインは、色使い・配置・フォントなどが少し違うだけで大きく印象が異なってくる。写真を使う場合には、その写真がどんな情報を持っているかを見極めることも必要だ。最近使われることが多いのは、60年代の女の子、レトロな電子機器など。また、微妙な違和感を出すようにすれば、そこにはユーモアが生み出される。

 何がダサくて何がクールなのかという問いの答を言語化するのは難しい。時として古さは逆にモダンであり、シンプルさが絶妙な空間効果を生んだり、渋い色使いが逆に鮮烈な印象を残したりする。その意味では、デザイン自体が簡潔か複雑かではあまり差は生まれてこない。本書を眺めながらはっきりとただひとつ分かることは、デザインとは情報を扱うセンスそのものだという事実だ。  取り上げられているデザイン・チームの中で、最も趣味に合ったのはBURO DESTRUCT。彼らのデザインは、古くて渋くてシンプルだ。

(OCT/05/98)



篠原一「天国の扉」 (河出書房新社)
 17歳で文学界新人賞を獲った作家の第3作。主人公の少年・タケイは、終電の中で酔客を介抱する振りをして財布を盗む少年と出会う。不思議な魅力を持つ少年は「僕を殺して欲しいんだよね」とタケイに頼み、彼に感じた好意ゆえにタケイは彼を殺し、バラバラにして河原に埋める。次の日、タケイの前には彼を連行しようとする謎の男が現れ、また、タケイの殺人に興味を持った橡子と知り合う。そして謎の男から逃れたタケイの目の前には、殺して埋めたはずの少年が再び現れ、彼に言われるがままタケイは人を殺し始める。

 本を通読して、狐につままれたような気分になったのは久しぶりのことだった。物語が収束を見せそうもないので、最後の方で嫌な予感はしていたのだが、ここまで観念的で難解な終わり方をしてくれるとは。どの登場人物たちの行動も動機付けが希薄で、しかも彼らについての説明も極端に少ない。ひとつひとつの出来事も、はっきりとした伏線のような形で関連性が浮かび上がってくることはない。

 その代わり、この物語は暗示に満ちている。途中、タケイが多重人格らしいことを匂わせる描写があり、謎の少年と男もタケイの分身ではないかと思わせられる。何もかもタケイの中で起きたことなのかもしれないし、この物語は「本当の自分」との出会いを描いた物語なのかもしれない。ただ、それは自己陶酔の匂いのする世間一般の「自分探し」とは違って、闇を抱えた血生臭い自分との出会いだ。タケイに影響されて無邪気に人を殺す橡子は、誰もが持つ殺人衝動の象徴なのだろうか。

 しかし、正直言って今もよくこの作品を理解できない。印象に残るのは、真夏の暑さに気が狂いそうなコンクリの部屋と、その中に勢いよく飛び散った血の赤い色ばかり。言葉を獲得する以前の感情の混沌が渦巻いているのに、常に耽美なまでの陶酔感が漂ってもいる。純文学を甘く見て接すると、つれない態度をされてショックを受けることもあるようだ。

(OCT/05/98)