Vol.11 1998



熊谷貫 撮影「広末涼子写真集 No Make」 (集英社)
 「No Make」というタイトルは、彼女の魅力を的確に表現した、非常にツボを押さえたものだと思う。昨年1月以降の彼女の活動を追ったものだが、肝心の写真はヤンジャンのグラビアの使いまわしが多くて、残念ながら新鮮味はない。でも、体の細さに比べて妙に顔が丸いとか、時としてとんでもない美少女ぶりを見せるのに、同じ人物とは思えないほどヘンな顔もするという事実を改めて気付かせてくれる。完璧ではないからこそ不思議な魅力が宿っていて、それが大きく支持される。早い話が、可愛いんだけどやっぱり不思議な存在だ。

 以前から、彼女は幸せな家庭に育ったんだろうなぁと思っていたが、巻末の「広末涼子1万字ロングインタビュー」でもそれを感じた。相当強いエゴ(決して悪い意味ではない)の持ち主でもあるのだろうが、その自己顕示欲が嫌みにならない点もすごい。もちろん嫌う人もいるだろうけど。でもやっぱり不思議な人で、僕がその不思議さを感じる限り、もう夢中になって追い駆けることはなくても、気になって時々横目で見てしまうんだろう。それがいつまで続くのかも気になるな。

(JUN/06/98)



岡田斗司夫「マジメな話」 (アスペクト)
 対談相手には堺屋太一や小室直樹の名前もあるので、最初は岡田斗司夫もとうとうオタク・ナショナリズムの権威付けを始めたのかと思ったのだが、最後には思わぬ結論が待っていた。

 意外なほど面白かったのが大槻ケンヂ。僕はあまり彼に興味を持てなかったのだが、「オタクになりきれないオタク」としての彼の苦悩には、正直言って共感さえ覚えた。また、社会での選択が広がることによって欲望も広がり、それは同時に不安と絶えず背中合わせになるという意見には深く納得。自分で抱えきれないほどの自意識を抱えてしまう苦痛は、僕にとっても他人事ではない。困ったことだが。

 最近ではドラッグやテクノ関係の文章が多い鶴見済は、社会システムについてけっこう真面目に語っていて、これは彼にしては珍しい。原稿チェックの段階で、いい加減な人間を演出するように手を入れたらしいのだが、ぜひオリジナルの発言を知りたかった。

 宮台真司との対談では、今後の日本は、善悪の自明性が壊れた「成熟社会」へ向かうという点で2人の意見が一致している。ちょっと驚いたのは、状況分析の上でそう認識していながらも、そうした社会に自分が乗り切れないのではないかと、彼らがともに違和感を感じていること。そんな彼らの姿に、僕も少し安心してしまった。

 ところが妻である岡田和美との最後の対談で、これだけの人々を相手に社会について語りまくった岡田斗司夫は、オタク言論人としての自分の役割はもう終わりだとあっさり言い放つ。躁鬱の幅の大きいことは本人も言明していることだが、潔いというか針の振り切れかたが大きいというか。しかし、オタクの地位向上をある程度成し遂げた彼のこの態度は、中途半端に社会性のあるオタクの僕にとって、社会におけるオタクとしての生き方を考えるうえで非常に興味深かった。

(JUN/06/98)



呉智英「マンガ狂につける薬」 (メディアファクトリー)
 マンガ評論でも活躍している呉だが、この本はただのマンガ評論集ではなく、マンガと活字の本を一緒に取り上げて論じるというもの。文化全体の中で、そのマンガ作品がどんな意味を持っているかを浮き上がらせるための試みだ。

 例えば、望月峯太郎の「ドラゴン・ヘッド」と北原糸子の「安政大地震と民衆」を並べ、災害時における不条理な人間心理について論じている。「ダ・ヴィンチ」という連載誌の性格もあってか、マンガ好きと活字好きの両方が楽しめ、そしてマンガと活字の両方の魅力に気付くことができるような構成だ。

 ただ、当然ながら取り上げられているマンガは呉の趣味によるもの。つまり、オヤジ受けしそうな、評価の定まった作品が多いのだ。その点でやや面白味が足りない気もするが、アカデミックな知識を持ってマンガの魅力を語る力量はさすがと思わせられる。

 しかも他の呉の著書と同様、民主主義・人権思想への批判が多いこと多いこと。この徹底ぶりもまた呉智英らしくて、単なるマンガ好きが気軽に読むとショックを受けること必至だ。

(JUN/06/98)