Vol.9 1998



見沢知廉「調律の帝国」 (新潮社)
 左翼活動の中で殺人を犯したSは、刑務所の中で罪を自覚し、小説を書くことによって精神の浄化と救済を図ろうとする。しかし身体と精神を徹底的に拘束する刑務所では、小説を書くことすら許されず、権力による囚人への「調律」と闘うことを余儀される。政治犯として獄中生活を送った見沢自身の体験を元にしたものであることは明らかで、当然刑務所内の描写には怨念さえ感じさせる迫力がある。血と糞便と体液がこびりついた壁や床をありありと想像させるに充分だ。

 読み始めた時に驚かされたのは、自己の罪を客観視する作者の姿勢の貫徹ぶりだ。「GON!」のドラッグ特集など、サブカル系の媒体に登場する彼とは別人のような冷徹さに満ちている。もちろん作品と現実を混同させるのは愚かだが、自身の経験を元にしていることを作者が言明している以上、衝撃を受けずにはいられなかった。安易な思考的枠組みを与えるイデオロギーの呪縛を脱し、より大きな思想を求めて神道に傾倒する主人公。そして真摯に文学へ対峙する姿勢の描写には、作者の自己弁護的な意図がある可能性も否定は出来ない。それでも、Sをあくまで病人として扱い、彼の更正を否定する精神科医の存在を描いている点などには、単なる精神科医への恨みではなく、作者の長い自己探求の軌跡を感じさせられた。

 看守たちによる囚人への不条理な暴行の描写も凄惨で、ある種のサディズムに満ちた陶酔を感じることも可能だろう。実際、指一本動かせない懲罰房の中で、かつての恋人が他の男に抱かれている情景を想像して射精する場面や、担当に気に入られようと作業に没頭したものの小説を書くことを禁止され、精神崩壊を引き起こす場面の描写には狂気に肉薄した熱が溢れている。見沢はあくまでも小説の内容を重視して欲しいとあとがきで述べているが、彼のこうした表現能力はもっと注目されてよいのではないだろうか。これみよがしに過剰な表現に陥らない、ある種のストイックさが確固として存在しているのだ。

 主人公は言う、殺人犯と普通の人間の間に差など無いと。偶然が生み出した精神状態や状況によって、人は人を簡単に殺せるのだと。死刑廃止を叫ぶほど僕は殺人犯に寛大ではないが、この問題を自分自身に突き付けられた時、僕は答を言い淀む自分に気付いてしまうのだ。

(MAR/04/98)



相川俊英「長野オリンピック騒動記」 (草思社)
 長野でオリンピックが開催されることがIOCで決定され、善光寺前に集まっている人々が大喜びしている様子をテレビの中継で見た時、複雑な気分になったのを覚えている。環境や利権絡みの問題は平気なのかと心配したのだが、この本を読む限りその不安は的外れでもなかったらしい。西武の開発利権が大きく関わっていることは周知のことだろうが、長野五輪のそもそもの発端は、酒の席での信濃毎日新聞社の記者の思い付きだったという事実には驚いた。筆者は、長野県内での官庁とマスコミの世論作りの様子を「オリンピック翼賛体制」と形容し、寄り合い所帯ゆえのNAOCの無責任体質を指摘しているが、データの裏付けもあってなかなかの一刀両断ぶりだ。また、オリンピック反対派の人々が激しい誹謗中傷に晒されたという部分には、発言する自由が脅かされることの恐しさを痛感させられた。

 とはいうものの、力を出し切った選手たちが喜ぶ姿にはホロリときてしまうのもまた事実。日本で再びオリンピックが開催されることがあるなら、素直に感動を味わえる招致活動や運営活動をしてくれるよう願うばかりだ。

 余談だが、水泳選手の千葉すずが、「ニュースステーション」の生本番中に、メダルを取れない選手に怒る人々を指して「メダル気違い」と発言した事件があった。その後の彼女に対するバッシングは激しかったし、たしかに国費でオリンピックに参加している以上批判されても仕方ない面もあるのだが、メダル至上主義に陥ることも愚の骨頂に違いない。オヤジ臭い説教と他人の嘲笑しか能が無いマンガ家・やくみつるまで彼女をコケにしていたのは怒りすら感じたものだ。現在彼女は選手を引退してアメリカで活動しているらしいのだが、彼女のようなアクの強いキャラクターを受け入れるぐらいの度量を日本人は持つべきだったと今でも思う。

(MAR/04/98)



切通理作編・著「ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ」 (三一書房)
 庵野秀明監督の「まごころ」が真夏の青空にぶちまけられた97年も過ぎ、98年の今となっては、エヴァについて語ることは危険水域に突入してしまった。エヴァを語ることは自分を語ることだと言われたが、それはまさに真実。ムーヴメントの熱狂の中で自分を語りつくし、ある者は去り、ある者は残った。今エヴァについて語る者に近親嫌悪の目を向けているのは、エヴァから去って行った者達だったりする。そんな極めて不利な状況の中で発売されたエヴァ本が、この「ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ」だ。

 本全体の半分近くを占める対談をしている切通理作と宮崎哲弥のほか、PANTA・村崎百郎 ・村瀬ひろみ・丸田祥三といったクセモノが執筆陣として名を揃えている。村崎百郎の鬼畜ぶりはライターとしての演出で、実は常識人なのではないかと疑っていたのだが、この本での印象も同じ。無理に笑いを作ろうとしているし、そもそも執筆時にはエヴァへの興味も薄れていたようだ。反対に、予想以上にテンションが高かったのがPANTAで、これほど神話や精神世界に詳しい人物だったのかと驚かされた。ただ、彼らの文章はそれぞれの得意分野を活かしてのもので、エヴァという現象を総括するようなものではない。

 それに対して、切通理作と宮崎哲弥による対談は、エヴァ現象を通して日本の社会状況を分析し、エヴァ現象を総括しようというもの。当然、オウムや酒鬼薔薇など、オタクがエヴァとの関連付けを嫌うネタが並んでいる。他の文化人の発言への批判も含んだこの対談は、宮崎の発言の過激さも含め、エヴァ現象の分析の一つとしてなかなか面白い。ただ、個人的には、サンプリング的な手法が生み出した文化的な閉塞感をエヴァ完結編が打破したことが一番の衝撃だったこともあり、この辺りについても語って欲しかった。そう感じるのも、たとえエヴァを通す形であっても社会を語ることに対する虚しさや、彼らの間に漂う庵野監督との同世代意識への嫉妬が僕にあるためからかもしれないが。

 僕らの世代から庵野監督のような存在が生まれ、熱狂を与えてくれる日は来るのだろうかと、ふと考えてしまった。

(MAR/22/98)