Vol.1 1997



立花隆「中核VS革マル」 (講談社)
 エヴァ関係の本ばかり読んでてすっかりとろけ気味だった頃の頭に、ガツンと現世からの一撃をくらわしたのが、立花隆の「中核VS革マル」だった。一般人には理解困難な左翼同志の血で血を争う抗争を、膨大な資料に基づき時間軸を追って丹念に描き出した上下2巻の作品だ。

 この本で描かれている73年から75年の熾烈な抗争は、72年生まれの僕にとっては「ホントにこんなことあったの?」ってな気分のシロモノだ。鉄パイプだのバールだのが振り下ろされ、肉塊や脳漿が飛び散り死体が転がる内ゲバの描写に至っては、悪趣味なフィクションを読んでる気分。それに密かな興奮を感じてる自分も悪趣味だが。とにかく、浅間山荘事件や安保反対闘争ぐらいしか知らない世代の僕にとっては、この昂揚感渦巻く世界は、なにか大昔のことのようにすら感じられた。鶴見済が言うところの「デカイ一発」が、僕らの世代には生まれてから一度もないのだから。

 僕の通っていた大学は、左翼組織のひとつ「解放派」の拠点校だった。学生会は解放派にしきられていたものの、普通の学生にとっては、学生会なんて学園祭の時ぐらいにしか関係しないものだった。ゲバ文字が躍るビラも、キャンパスにときたま見かける小汚い活動家らしき人間も、大学生活に浮かれる大多数の学生には、視界にも入らないオブジェに過ぎなかった。

 そんな彼らが僕の在学時に1度だけ大規模なバリケードストライキを展開したことがあった。僕が1年生だった年の12月、「学費値上げ反対」のスローガンのもと、半月にわたって大学の校舎がロックアウトされた。ただ、学生は自由に出入り出来るんで、僕は毎日サークルの部室に行っては無駄話をして、日が暮れたら帰るという生活を送っていた。そして「これじゃバリスト前の生活と同じだなぁ」と気付くんだが。彼らは冬休み期間になってもバリストを続行、そしてクリスマスも過ぎた頃、一般学生のいないキャンパスで機動隊に排除されたのだった。バリスト中、学食でヘルメット姿の活動家の周りだけ誰も近付かず、彼女(女の子というのにはフケてた)がだだっ広いテーブルにひとりで食事をしていたことが思い出される。

 大学2年の頃知り合った「5年生」のSさんは、そのバリストで機動隊とやりあったバリバリの「活動家」だった。もっとも本人は、こちらが拍子抜けするぐらいに、そんな活動を退屈しのぎの娯楽と割り切っていた。だからこそ僕は仲良くなれたんだが。そして現在、Sさんは故郷で立派に公務員としてお勤めをしているというオチまでつく(笑)。

 そんなこんなで、僕にとって、「ガクセイウンドウ」というのは、無力感や虚脱感の記号だった。彼らが声高に叫ぶ現実社会に対する変革闘争云々というよりは、自己の存在意義の確認をむやみに大きな組織でやってしまった挙げ句の自家中毒というイメージだった。「中核VS革マル」は、学生運動がその発生から短時間で自己を袋小路へと追い込んでいく展開を描いていて、僕のイメージもまんざら外れてはなかったんじゃないかという気もしてきた。

 さて、立花隆は中核派と革マル派の抗争について、かつてのプロテスタントとカソリックの例を引いてこう述べている。

「自分は神につかわれ、相手は悪魔につかわれていると互いに深く信じあい、神のためには自分の命をささげることもいとわぬほどの狂信性を持った信徒集団同志がぶつかりあえば、やがて殺し合いになるのも不思議ではない。」
至言じゃないか。そして、素晴らしいほどこの社会での汎用性がある言葉だ。



ハラルト=シュテュンプケ「鼻行類」 (博品社)
 この不思議な本との出会いは、中学生の頃読んでいた科学雑誌に載った記事だった。そこには「鼻行類」なる奇妙な姿の生物の図版と、彼らは核実験の巻き添えになって絶滅してしまったという記事が載っていた。確か見開き2ページで、それ以上の情報もなく、半信半疑ながらも、いや、真偽がわからないままだったからこそ、この生物達は僕の記憶に深くに残っていった。

 それからいきなり10年。長らく絶版だったというこの本が再版されたと聞き、昨年、神保町でやっと入手した。たまの知久寿焼や、ボアダムスのヨシミも愛読書に挙げていたこの本、いざ手に取ってみると、学名が並んでいて本格的な生物学書のよう。思わず腰がひけて、珍妙ながらも愛らしい鼻行類達の図版だけを眺めて、そのまま本棚に置きっぱなしにしてしまった。不意にこの本のことを思い出すまでずっと。

 ところがいざこの本を読みだしてみると、これがえらく面白い。なにしろ全て架空の生物だというのに、その外観や生態、さらには骨格まで詳細に描かれているのだ。頻出する学名も、当然全て架空のもの。しかも、これまた全部架空の参考文献までが、しっかり挙げられているのだ。嘘もここまでつき通せば立派な芸。膨大な生物学的知識に支えられた、緻密で壮大なメタ・フィクションなのだ。

 この本の著者・ハラルト=シュテュンプケは、鼻行類の生息する島に作られた研究所で核実験に巻き込まれ、鼻行類と運命をともにした…とあとがきに書かれている。そう、この著者も架空の人物で、本当の著者は別人のようなのだ。しかも、訳者によるあとがきにも、この本の真偽については一切触れられていない。それどころか、再版された博品社版の後書きでも、この訳者、全くその点に触れていない。見事な共犯者ぶりで、思わず口元がゆるんでしまった。

 冷静かつ真面目な顔で、徹底的に虚構を構築することによって生まれるこのユーモアは最高だ。日頃、ダウンタウンだのナインティナインだのの、自分で自分のギャグで笑ってるような「お笑い」に辟易している僕には、とても痛快な1冊だった。



宮台真司「世紀末の作法」 (リクルート)
 ブルセラ学者として名高い(?)彼の、援助交際をはじめとする社会現象への提言を60編以上収録したもの。深い現象理解を目指したゆえ、通念に反するような発言もしばしば現われる。装丁も秀逸だ。

 彼によれば、家庭も地域社会も「学校化」した後に、「第四空間」として若者の受け皿となったのがストリートであり、援助交際は、そうした状況で自意識を維持するために必然的に発生した、新たな土着的な性の形態であるという。そう考えると、渋谷の街に溢れるコギャルも、なんとなく許せる気がしてくるから不思議だ。活発なフィールド・ワークの上に構築された彼の分析は、そう思わせるぐらいに説得力がある。もっとも、広末ファンの僕には、彼女たちはやはり気色悪い生物種に見えるんだけどさ。

 本書の中でも、社会のあらゆる逆説を引き受け、常に自己の思想を再構築していこうとする筆者の姿勢は一貫している。「終わりなき日常を生きろ」を読んだ際に僕が感じたカタルシスは、彼のこの姿勢ゆえのものだろう。

 しかし、そうした理論を駆使しての現実への対応が、週間アスキーでの「中学生救済計画」なんてシロモノなのかと思うと、暗澹とした気持ちになってしまう。なにせ、「救済」とかいて「サルベージ」と読ませてたし。その明晰な知性の着地点が、こんなものでは…。相対主義が今もって抜け出すことが出来ない、ポストモダンの呪縛を目の当たりにしたような気分になった。